竹沢うるまインタビュー「世界一周の果てに辿り着いた場所」

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旅をしている自分と、それを受け取る他者とのギャップ

いぬたく

インタビューをさせてもらっておいて言うのもなんなんですけど、うるまさんが世界一周して感じたことや見てきたものって、どうしても伝えきれない部分はあると思います。

うるま

うん、もちろんそうですね。

いぬたく

今回写真展を開催したり、旅の途中でもブログをアップしたりしても、うるまさんから離れた日本という場所で受け取る我々にはギャップがあって。

うるま

そうですね。

いぬたく

とはいえ、リアクションも届くわけじゃないですか。例えばブログにコメントがあったり。正直そこでギャップを感じるんじゃないかと思うんですけど、自分と受け手の感覚の違いって、何か思ったりするところはありますか?

うるま

それはもちろんいっぱいありますね。どうして自分が今見て感じていることが、伝わらないんだろうかって。
今日本に帰ってきて思えば当たり前なんですけど、旅の最中では僕は旅の世界、本当の世界の中にいたので、僕にとってはそっちの方が当たり前の感覚だったんです。

僕、途中からブログを書くのが少なくなってしまったんですけれど、それはまさしくそれで、何を言っても伝わらないなって思ったんですよ。本当はそこでも諦めずに伝えるべきで、それが僕の役割だったとは思うんですけど。

写真家・竹沢うるまインタビュー

いぬたく

やっぱりそういうギャップは感じていた、と。

うるま

やっぱりね。
一番本音が書けたのは、BE-PALのウェブでやっていた連載でしょうか。あれは僕自身の言葉じゃなくて「うるま」っていうキャラクターを作り上げて、そのキャラクターにしゃべらせていたんですよ。

いぬたく

スタンプのあるブログですよね。

うるま

そうそう。あれが唯一、竹沢うるまっていうしがらみを超えてキャラクターを作っちゃったんです。
あの連載では地名は一切出さなくて、この宇宙のどっかにある星を旅している「うるま」っていうキャラクターが手紙を送っているっていう設定なんです。

あの連載の12~13回目、アフリカに入ったくらいから、読み手を意識しなくて本当に自分自身の心を文章に書いたんですよね。あの連載の中では伝わってるんじゃないかなあ、と。
おっしゃる通り、伝わらないんですよね、僕が感じてきたことや見てきたこと全ては。

写真家・竹沢うるまWalkabout

“媒介者”としての芽生え

うるま

でも、最終的に僕が思ったのは、写真っていう一つの表現をする職業に就いている者が3年かけて世界を見てきた以上は、伝えなければいけないある種の使命感があるってことなんです。
さっき言いましたけど僕は自分中心な人間なんで、人のために写真を撮ったこともないし、撮ろうとも思わないけども、旅を終えたときに初めて「伝えないといけないんだ」と。こういうことをしてしまった以上は伝える義務が自然に生まれてしまうんだ、ということはすごく感じました。

いぬたく

終わった後に感じたんですね。

うるま

はい、終わった後に、伝えよう、伝えなきゃいけないと思って。それで写真展、写真集の流れになるんです。特に自分より若い人に対して伝えないといけないなって思っていて。
初めてそういう使命感を感じたんですよね。今までそんなこと考えたことなかったんですけどね。

いぬたく

そうでしたか。

うるま

そこで僕は伝えるけれども、すべては伝わらない。じゃあどうしようかってなった時に、行ってもらうのが一番いいんですよ。僕が実際に旅してきたように。
同じ旅をしろとは言わないですよ。1週間でもいいし、1ヶ月でもいいし、もし行けるなら1年でもいいけれども、行ってきて欲しいと思います。ほんの少しでもいいから、世界を実際にその目で見てきて欲しいんですよね。そこに誘うのが旅をしてきた写真家としての僕の今の役割なのかな、と。
大人になったんですよね、きっと(笑)

いぬたく

はい(笑)。
これまでは写真ってほぼイコールうるまさん自身だったわけですよね。その「伝えなきゃ」というのは、竹沢うるま本人っていうよりも、その土地だったり、人だったり、その土地に行くことの価値だったりするようになったってことですか?それとも、うるまさん自身を伝えることによって何かを感じて欲しいっていうことですか?

うるま

両方ですね。
僕が何を見て、何を感じたのかっていう、一人の人間としての心の動きをまず感じて欲しいとは思います。あまり偉そうなことは言えないですけれど、本来なら人はこれだけ心を動かされて生きているべきで、心の起伏ってものすごく大切であると思うんです。旅っていうのは心の起伏が最も出るシチュエーションですから、まずはそれを感じて欲しいですね。

あとは誰もがこれらの世界を見られるわけではないので、僕は一種の媒介だとも思ってます。英語で言うと「mediator」みたいな。一種のシャーマンみたいなもので、本当の世界とこっちの世界をつなぐ役割。その媒介として、僕の写真や体験を使ってもらいたい。

僕の写真に写っているものって、僕自身の心を通してはいますけど、そのものとしてもやっぱり存在してるわけですよね。
写っている風景や人は現実の世界に存在していて、僕はその現実の世界を写真で撮った以上は、ちゃんと伝えないといけない理由が生じてくるんですよね。

写真を撮るっていう行為は一種の盗みと一緒で、向こうに帰属している時間の連続性を止めて、それをキャプチャして、写真を撮った人に帰属させてしまうんですよ。時間を盗んでしまうのと一緒で。そういう行為をする以上は、風景や撮った人に対して、何らかの責任が必ず生じてしまう。本当に真面目に言ってしまえば、その写真は自分自身のものとして発表するべきではないんですよね。でもそんなこと言うと写真家っていう職業は成り立たないから、やっぱり自分のものとして発表する。その代わり、その世界を歪曲せずに伝えなければいけないっていう。それは自分自身を通しての世界というより、「そこにはそういう世界がある」という一種の客観性を持った記録ですよね。

だから、やっぱり両方あるんですよね。自分自身の主観性を通した世界と、「この世界にこういう人々が住んでいる」っていう記録性、客観性。

いぬたく

うるまさん自身が媒介になる、媒介に徹してもいいと思うようになったのが、この旅をしていて一番変わったところだったりしますか?

うるま

そうですね、それは思いますね。自分は伝える人間なんだっていう意識の芽生えは大きな変化ですね。これまでは自分自身のために撮ってきて、自分が満足するものしか出したくないっていうのが、それだけではなくなってきたという。大人になったかな。

写真家・竹沢うるまWalkabout

「本当の世界」はどこに在るのか

いぬたく

うるまさんの感覚で、旅をする先の世界をよく「本当の世界」っておっしゃってるのが印象的なんですけど、うるまさんの中で日本は自分がいるべき本当の場所ではないという感覚はありますか?

うるま

僕は日本っていう国に生まれて、日本っていう社会で育って生きていますから、僕がどこに属するかっていったら、間違いなくここ(日本)だと思うんです。ただ、やっぱり僕らは世界の中ではマイノリティなんですよ。世界のマジョリティっていうのは、僕らが知ってる世界ではないんですよ。世界のスタンダードっていうのは、ここにもない、アメリカにもない、ヨーロッパにもない。世界のスタンダードは、南米の山奥だったり、アマゾンの奥地だったり、アフリカの乾燥地帯だったり、そういう場所に本当はあるんですよね。人間っていうのは本来ならそこに帰属しているべきなんです。

僕が最終的に写真集をまとめるにあたってメイン据えたかったのは「大地とともに生きる人間」っていうテーマだったんですね。
大地や自然の中に人間っていう生き物が住んでいて、そこにつながりが生まれる。そのつながりの中から言語が生まれて、音楽が生まれて、踊りが生まれて、文化が生まれて、歴史が積み重なっていく。僕はその大地と人の関係性の太い場所を求めてたんですね。

僕にとって、大地があって人がいてちゃんとした関係性が成り立っている場所こそが本当の世界なんです。そこで生きている人たちは本当に「生きている」んですよ。表情や輝きが違って、彼らが考える「生きる」と日本にいる僕たちが考える「生きる」っていうのは違うんですよ。
彼らの「生きる」っていうのはまさしく生きるってことなんです。人として、人間として、ひとつの生命として生きる。自分の生命力を輝かせて、すり減らして生きていく。
僕らの「生きる」っていうのは、「どうやって生きるか」になるんです。付加価値の生きるでしかない。どうやって幸せに生きるか、どうやって楽しく生きるか。それは一つの生物としての「生きる」っていう意味からかけ離れちゃってるんですよ。

それが僕が言っている「本当の世界」と「そうじゃない世界」っていうことなんですよね。僕が日本に帰ってきて一番先に思ったのはそこなんです。

写真家・竹沢うるまWalkabout

いぬたく

帰国されてからは、Twitter(@uruma_takezawa)やブログなどからうるまさんのその戸惑いっぷりがすごく伝わってきていました。

うるま

なんて無駄なことで世の中が動いているんだ、無駄しかないんじゃないかって。虚構の上に虚構を重ねて、虚構が生み出されているみたいな。本質的な「生きる」っていうものが抜け落ちちゃって、何にも見えなくなってくる。

正直なところ、僕らの身の回りのもの全部なくなったっていいんですよ。こんなこと言っときながら僕がカメラっていう文明の利器に頼らないと自分を表現できない人間なんで、僕自身とても皮肉な存在なんですけれども。
人と大地が密接に関わっている世界こそが本当の世界だと言いながら、僕自身はこっちの世界に属さないと生きていけないっていう。そこのギャップはものすごくあって、ストレスはもちろんあります。できればこういう世界を離れていきたいと思ってるけれども、こういう仕事をしてる以上は離れられない部分もあって。そういうギャップはすごくありますね。

もちろん僕らこういう世界にいるんで、完璧にそっちの世界に行くことは間違いなくできない。僕自身も向こうが本当の世界と分かっておきながら絶対に無理なんですよ。僕らができることってなんなのかっていうと、バランスを保つことなんですよね。人と大地がつながっていける、そのバランス。

まず本当の世界のスタンダード・基準はどこにあって自分の立ち位置が間違ってることを認識したら、その上で自分の中でもっとも落ち着くを見つけないといけない。そのバランスの置き所をこれから自分で探していかないと、たぶんストレスを感じてやっていけなくなるとは思ってます。

いぬたく

僕は、うるまさんは「本当の世界」の側にもっと軸足を置いていきたいと思ってる人なのかと思っていました。でも、今はそのバランスを見つけようとしてるんですね。

うるま

1~2か月の経験であれば、向こうの世界に飛び出すかもしれないです。でも旅をして世界を見るほど、結局自分自身はこっちの世界の人間にしかなれないっていう結論に達しちゃうんですよ。それは究極の結論で、悲しい結論でもあるんですけど。旅人は所詮旅人でしかないんです、どこまで行っても。そこは勘違いしてる人多いかもしれないですけど。
現地の人と仲良くなって、同じものを食べて、全く同じ生活して、それを10年、20年、30年続けたとしても、所詮よその世界から来た人間でしかないんですよ。旅を続ければ続けるほど、自分が日本人であるっていうことを痛烈に感じていって、最終的に諦めの境地に入っちゃいますね。
やっぱり生まれ育った日本からは離れられない。だから、僕が言うのはバランスなんですよ。こっちに振り切ることはできない、でもここにも違和感を感じている、ならばバランスを取るしかないっていうところですかね。

いぬたく

よく分かりました。3年前に旅立たれる前の心の準備や覚悟というお話がありましたが、これからそのバランスを取るために、3年前とは違う覚悟というか恐怖ってありますか?

うるま

どうでしょうねえ。今はまだ旅を自分自身の中で終わらすことができていなくて、写真展と写真集の動きが一段落した時点で、もしかしたら初めて恐怖や不安を感じるかもしれません。今はまだインプットとアウトプットの中間にいるわけなので。

いぬたく

なるほど、分かりました。

竹沢うるまインタビュー

番外編 Vol.1 3年ぶりに戻った海の中

いぬたく

あと2つだけ質問があります。一つは、オーシャナは一応「海とダイビングのメディア」なのでうかがおうと思っていたんですが、日本に帰られてからモルディブに行かれてましたよね。

うるま

あ、行きましたね。

いぬたく

世界一周した後に海に潜って、前と違ったことはありましたか?

うるま

モルディブは20回以上行っていて、そういう見慣れた海を3年間旅した後に見たらどうなるんだろうと思っていたんですが、ものすごく新鮮だったんですよね、海自体が。
「海ってやっぱ青いねんな」とか「海って透明なんだな」って。みんながダイビングで一番最初に驚くところにやっぱり驚くんですよね。そういうのって、水中撮影をしていた時にはなかったんですよね。

だから、別にどんな生き物が出ようが、どんな地形であろうが、どうだっていいんですよ。海に潜って、上がってきて、「あぁ、気持ちよかったね」っていう、そこなんですよね。そういう気持ちに戻れたことはすごく大きかったですね。

いぬたく

新鮮だったんですね。

うるま

旅の途中から、心の状態を凪いだ水面のようにしておきたいと思っていたんです。
海のように、風が吹けば波が立つし、物を落とせば波紋ができるし、寒くなれば凍るし、暑くなれば蒸発するし、常に状況に応じて変化していく。ほんの小さな軽い羽根が落ちたとしても、水面に変化が起きるわけですよ。それこそが心の動きであって、それこそが表現なんですよね。旅の出会いの中で凪いだ心の表面に浮かび上がる波紋や形こそが、写真で捉えるべき表現の世界なんです。僕は海が基礎にある人間なんで、そういう風に考えちゃうんですよね。

そういう心の状態になっていたので、久しぶりにモルディブで潜った時に、海のリズムと自分の心のリズムが調和するんですね。以前よりも調和してるんですよ。そういう感覚はすごくあって、「あぁ、やっぱ落ち着くな」「海っていいな」って思いましたね。

いぬたく

心を凪にしてそこの波紋を表現したいっていうのは、世界一周する前から思っていたことなんですか?

うるま

理想としては持っていたと思いますが、自分自身でそういう風にできていたわけでもなく、言葉として表せていたわけでもないです。でも旅をして、振り返って考えた時に、言葉に置き換えたらそういうことだったなという感じです。

竹沢うるまの水中写真

番外編 Vol.2 写真と動画の違いとは

いぬたく

もう一つ、本題から少し逸れちゃいますが、うかがいます。うるまさんは今は「写真家」という肩書きですけれども、動画って興味はありますか?

うるま

動画は分からないですねえ。一時期やっていた時もありましたけど。作品としての動画ってことですか?

いぬたく

作品にするには労力や時間もかかっちゃいますけれど、アーティストというよりもむしろさっきおっしゃってた媒介者っていう役割として、です。

うるま

たぶん作品としての動画は、僕は撮れないと思うんですよ。動画だと自分自身の視点や個性を写真ほどは出せないと思うので、まずそれは無理だろうな、と。
旅をしているある種の特殊性をムービーで撮ってくるっていうのはたぶんできるし、一時期やっていたこともあるんですが、それはビジネスとしてやることかなという感じがします。竹沢うるまとしてはやっぱり写真なんだと思います。

いぬたく

それは写真への思い入れなんでしょうか、あるいは慣れなどの部分なんでしょうか。

うるま

やっぱりムービーって情報量が多すぎると思うんですよ。動いて、音があって、視覚もあって。想像の余地がないんですよね。情報でしかない。
写真っていうのは、止まってるし、瞬間でしかないし、音もないし。すると、そこから想像が喚起されるわけですよね。見た人が写真を通じて頭の中で思い描く新しい世界、想像の余地の部分が写真のおもしろいところであって、その面白味が動画には感じられないんです。

いぬたく

分かりました。途中で「媒介者としての役割」というお話があったので、うかがってみたんです。

うるま

ああ、なるほど。媒介するにしても、全ての情報を与えちゃうとダメだと思うんですよね。想像を喚起させて、そこを膨らませることによって初めてその人の中に世界を生み出すことができると思います。映像ほど多い情報を頭の中に入れると、それは情報でしかないから、やがて忘れ去られてしまう。ただ、情報が少なければ、その一つの写真から色んなものを想像する。想像した時点で、その世界はその人のものになっているんですよ。そこの差ですよね。だから、媒介するにしても、より深くその人に食い込むためには、ある程度の情報の少なさっていうのは必要なんじゃないかなと思います。

いぬたく

なるほど、よくわかりました。今後、写真展と写真集を経てうるまさんがまたどう変化するのかも楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました!

写真家・竹沢うるまインタビュー

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※写真展の詳細はこちらの記事をご覧ください。
世界一周の旅を終えた写真家・竹沢うるまの写真展&写真集「Walkabout」 | オーシャナ

竹沢うるまインタビュー「世界一周の果てに辿り着いた場所」

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