尾崎たまき「いまも水俣に生きる」写真展記念インタビュー

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第2回:ダイビングを始めてから水俣の海に出会うまで

いぬたく

ではちょっと話を水俣に潜る前に戻します。
ダイビングは水俣の海を撮り始める前から始められていたんですよね。

尾崎

そうですね。ダイビングは19歳のときに始めました。
水俣の海に初めて潜ったときは25歳だったので、5〜6年くらい経ってますね。

尾崎たまき「いまも水俣に生きる」写真展記念インタビュー

いぬたく

ダイビングは熊本で始められたんですか?

尾崎

はい、初めて潜ったのは地元・熊本の天草というところです。

いぬたく

ああ、天草なんですね。それからしばらくは天草に通って潜っていたんですか?

尾崎

はい、3時間くらいかけて行っていましたね。

いぬたく

水俣湾と天草はある意味「お向かい」みたいな感じですよね。

尾崎

そうですね。

いぬたく

その頃は通常のファンダイビングをされていたんですよね?

尾崎

はい。熊本にいるときは商業カメラマンとして陸上の写真は撮っていましたが、水中写真はあくまで「自分の作品を撮るもの」という感じで、まだお仕事にはしてなかったんですね。

いぬたく

お仕事としては、陸上写真のフォトグラファーだったんですね。

尾崎

はい、雑誌とか、広告・商業写真が多かったですね。

いぬたく

それまでファンダイビングをされていて、そこから地元・水俣の海が気になり始めて、そこでちょっと意識が切り替わった感じなんでしょうか?ドキュメンタリーとして追いかけてみようという気持ちに近かったんでしょうか?

尾崎

ドキュメンタリーとかは深く考えていなかったんですが、もともと水中写真を撮りたくて写真の道に入ったんです。
仕事としては陸上の写真をやっていたんですけれども、水中写真をやるために写真を始めたので、自分の中では「そこでいこう」とは思っていました。

いぬたく

そうだったんですね。

尾崎

たしかに水俣なので社会性のあるテーマと思われがちなんですけれども、きっかけは特に社会性のあるテーマだからというわけでもなかったんです。
水俣に関してもすごく詳しいわけではないですし(笑)

いぬたく

なるほど(笑)

尾崎

なので、そういったドキュメンタリーとしてという意味よりも、自分の地元の海だからという思いの方が強いですね。

いぬたく

地元で気になるものだから見ておきたい、記録しておきたい、ということが出発点だったんですね。

尾崎

はい。今となっては、ドキュメンタリー的な部分に惹かれている部分もとても大きいんですけれどもね。

いぬたく

なるほど。でも当時のきっかけとしてはそういう感じではなかった、と。

尾崎

そこまで考えて動いていたわけではないですね。

いぬたく

わかりました。では水俣に毎週潜られるようになっていろんなことが見えてくると思うのですが、そこらへんはどうだったんでしょうか?

尾崎たまき「いまも水俣に生きる」写真展記念インタビュー

尾崎

まず仕切り網を中心に、網沿いをずっと潜っていたんですけれども、網っていうのは人間の陸上の私情で、人間が勝手に思っていることをそうしたいというために作られたものであって。そういった人間の思惑とは無関係に、生き物たちっていうのは自分たちが生き延びるためにその網を利用するというたくましい姿を感じたんですね。
網沿いを1mか2m移動するだけでもいろんなドラマがあるんです。魚やイカが卵を産みつけていることもあったり、自分の身を守るために網のむこう側に逃げたり。そうかと思えば、網に引っ掛かって命を落としてしまっている生き物もいたり。いろんな生き物たちのドラマがあるんですね。
一つの仕切り網っていうものが漁礁みたいな形になっていて、魚が集まってきていろんなことが起こっている場所だということを感じました。

いぬたく

なるほど。その仕切り網はいつぐらいまであったんでしょうか?

尾崎

1997年に仕切り網が全面撤去されたんです。それまでは仕切り網を映しこんで生き物や海の風景を撮ることによって、水俣の海を表現しやすかったところがあったんです。仕切り網が水俣の海の象徴的なものでもあったので。
でもその網が撤去されて、しかも網が撤去された直後は人の手でぐちゃぐちゃにされたような状態で、生き物もすごく減ってしまったんです。そのときに、「生き物もいない、網もない」という状態で、私は水俣の海をどうやって表現したらいいんだろうというカメラマンとしての悩みがありましたね。

いぬたく

写真として分かりやすい象徴がなくなってしまったんですね。仕切り網はどれぐらいの間あったんですか?

尾崎

23年間(1975年〜)あったので、私が撮り始めたころは撤去間近だったんです。

いぬたく

なるほど。尾崎そんなときに、仕切り網が入っていたところに漁師さんが刺し網を入れたんです。
仕切り網があるときは漁が全て禁止だったんですが、仕切り網が撤去されて漁が解禁されると、漁師の網が入れられたんです。そのことで、「漁師さんたちはここの生き物たちを生活の糧にしてらっしゃるんだなあ」と強く感じたんですね。

尾崎たまき「いまも水俣に生きる」写真展記念インタビュー

尾崎

それまでは水俣の水中しか見ていなかったんですけれど、それからは地上の様子や生活に目が行くようになりました。

いぬたく

水俣の水中から陸上にも視点が移っていったんですね。尾崎陸上で海に携わってる人たちに会ってみたいな、撮りたいなと思うようになって。それから漁師さんのところへ行くようになりました。

次回は「最終回:水俣の写真展で伝えたいこと」をお送りします。
尾崎たまきさんがこの写真展を通じて一番伝えたいこととは?どうぞお楽しみに!

尾崎たまき「いまも水俣に生きる」写真展記念インタビュー

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