忘れてはいけない、2004年の津波のこと~タイのカオラック、家族で過ごす春休み~

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タイ、カオラックの津波(撮影:越智隆治)

カオラックで、僕たちが忘れられない事、忘れてならない事。
それは、2004年12月26日に、この地を襲った津波。

カオラックではで4000人以上の犠牲者を出し、当時建設ラッシュが続いていた多くのリゾートホテルを津波が飲み込んだ。
水中カメラマンとして、頻繁にタイロケに訪れていた自分にとっては、東北に被害をもたらした津波以上に、とても身近に感じた出来事だった。

自分も理事をつとめる三陸ボランティアダイバーズの代表理事、佐藤寛志さん(くまちゃん)は、タオとカオラックにあるダイビングサービス、BIG BLUEのスタッフとして、この津波のときにも、ボランティア活動に尽力していた。
今回泊まっているリゾートも、当時甚大な被害を受けて、一時期は壊滅状態になった。
2003年、長男の海友が生後5ヶ月のときに取材でタイを訪れたときにお世話になったリゾートのスタッフも、津波に飲み込まれてしまったと、津波から3ヶ月後の復興ボランティアクルーズに乗船するために、カオラックを訪れたときにediveの平川恭さん(恭ちゃん)に聞かされた。

恭ちゃんに案内されて、破壊されたカオラックの町を撮影してまわった。
初めて岩手を訪れたときの惨状を目の当たりにした時と同じように、身体が震え、言葉に詰まった。
その感情を押し殺すかのように、必死になってシャッターを切っていた記憶がある。

報道カメラマンを辞めたから、もう悲惨な状態を無理して撮影しなくてもいいのに。
そんな事を思いながらも、シャッターを押すこと以外に自分にできることがなかった。
特に家族で滞在したリゾートの惨状は、家族との楽しい思い出の中に出て来た、小さな海友に優しく親切にしてくれたスタッフたちの笑顔が蘇ってきて、胸が苦しくなった。

タイのカオラックのリゾートスタッフ(撮影:越智隆治)

あれから、9年。
津波後も何度か取材で訪れたカオラックの復興の早さは、目を見張るものがあった。
まだまだ更地のままの所もあるのだけど、リゾート開発は急激に進み、多くのリゾートが復興し、レストランやおみやげ屋さんが軒を並べる。
今では欧米諸国に人気の一大リゾートとしての地位を確率している。

そんな中、昨日はediveの高見沢昇治さん(昇治くん)に案内してもらって、家族で撮影に訪れたのは、津波で海から2kmも内陸に流されて来た、タイの国境警備船。
今現在、津波のメモリアルパークとして、奇麗に整地され、新たなモニュメントの建築が進んでいる。

タイのカオラックのモニュメント(撮影:越智隆治) タイのカオラックのモニュメント(撮影:越智隆治)

船に近づくと、妻は被っていた帽子を脱ぎ、一礼をした。
子どもたちの反応は、と様子を伺う。
うだるような暑さで、早くリゾートに戻ってプールで泳ぎたい二人。
長男の海友には、生後5ヶ月の時にここに来て、リゾートのスタッフにお世話になった事、その人たちが津波の被害で亡くなった事を伝えていた。

タイのカオラックのモニュメント(撮影:越智隆治)

何も聞かなかったし、何を考えているのかわからなかったけど、モニュメントとなった船によじ上り嬉しそうに記念撮影をする大人を見て、「あれ、登っていいの?ダメだよね」と不満そうに、ぼそっと口にした言葉からは、津波の犠牲になった人への思いを何かしら感じていたのだろうなと思った。

タイのカオラックのモニュメント(撮影:越智隆治)

今もリゾートのあちこちには、津波が発生したときの避難経路を指示する看板が見られる。
東北の復興は、まだまだこれから。
今でも仮設住宅住まいの被災者の人も多い。
ダイビング業界でも、くまちゃんをはじめ、いまだに、現地でのボランティア活動に尽力している人が沢山いる。
なかなか現地に足を運ぶことができてはいなけど、どんな形でもいいから、この復興に携わって行こうという気持ちは、持ち続けていたいと思う。

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PROFILE
慶応大学文学部人間関係学科卒業。
産経新聞写真報道局(同紙潜水取材班に所属)を経てフリーのフォトグラファー&ライターに。
以降、南の島や暖かい海などを中心に、自然環境をテーマに取材を続けている。
与那国島の海底遺跡、バハマ・ビミニ島の海に沈むアトランティス・ロード、核実験でビキニ環礁に沈められた戦艦長門、南オーストラリア でのホオジロザメ取材などの水中取材経験もある。
ダイビング経験本数5500本以上。
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