綺麗な写真か、ありのままの写真か。海の魅力を最大化する功罪
先日、紀伊半島・古座のDIVE KOOZAのガイド・上田君に、「今度、撮影に入らせてほしい」という話をしていて、いつの時期が撮影に最適なのかを聞いたところ、「いつでも良いです」という意外な返答。
通常、撮影に入る時は、プロモーションという意味合いも大きいので、その海を最大化した写真を撮りたいし、撮らせたい。
カメラマンとしても、コンディションの良いときに美しい写真、あるいは目玉となる被写体を撮りたいので、最もよい時期を狙って撮影するのが基本です。
しかし、上田君いわく、たまにしかない透明度の良い時や、たまにしかないシーンを見せても、逆にゲストに誤解を与えてしまう、というのがその理由でした。
実はこれ、ダイビング雑誌時代に、よく読者に言われていたことでもあります。
「雑誌で見た海とまったく違った」
「良い写真を見たいのではなく、その海のことを知りたい」
誤解なきよう言っておきますと、今でも、その海を最大化するようなテーマとそれに沿った写真がグラフを飾る方がよいと思っています。
イメージは大事だし、価値はある程度作っていくものだとも思います。
何より、素敵な写真は見ているだけで気持ちがいいし、瞬時に人の心をつかみます。
また、水中写真が中心になっているダイビングスタイルにおいて、ガイドやプロの写真はお手本にもなります。
ただ、透明度や大物、レアもの、きれいといった、わかりやすい価値だけでなく、違う価値を伝えたり、あるいは、もう少し立体的にその海について伝えることも大事で、そういう情報を求めているダイバーもいるんだろうな、と上田君の言葉から改めて考えさせられたのでした。
例えば、タイやモルディブに潜った人の感想で、「濁っていて残念でした」という声を聞きます。
これは、良いプロモーション写真をもとに、潜る前にイメージが頭の中でできあがってしまっているからでしょう。
しかし、僕は、これらの海に潜ると“なんか出る感”にゾクゾクします。
透明度が良くないことは、時に栄養分が豊富な証でもあり、悪いことばかりではないのです。
また、極端なことを言えば、潜る海を決めるとき、「どんな海に潜るのか」は最も大事なことですが、「誰と潜るのか」という価値観を優先する潜り方もあってよいと思います。
上田君の「緑の海は緑の海でいい」という言葉を勝手に解釈すれば、「透明度や南方系の魚を求めるなら、すぐ隣の串本を潜ればいい。古座には古座の魅力があり、どんなコンディションでも、一番よくこの海を知っている僕なら楽しませることができる」という自信の裏返し…というとプレッシャーをかけ過ぎでしょうか(笑)。
自分もメディアとして、写真をどこまで修正・補正するのかいつも悩むのですが、その海を最大化、いやそれ以上に誘惑するようなアーティスティックなグラフは絶対に必要だとは思うのですが、同時に、その海のありのままを立体的に、あるいは新しい価値を伝える方法を模索してもよいのかも、なんてことを考えたのでした。