イントラ様は神様か
〜我潜る、故に我あり〜
「お客様は神様です」
これは昭和の大スター三波春夫の言葉とされているが、
「レッツゴー三匹」という漫才トリオがパロディって流行らせたというのが実情で、
そこには誤解にもとづくかなりの脚色があるようだ。
三波春夫自身はこの自分の言葉とされているものについて次のように語っている。
われわれはいかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、
そしてお客様をいかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。
お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、
その代償を持ち帰っていただかなければならない。(*)
三波春夫はプロの歌手というサービス提供者として、
楽しみを求めて金を払い会場に足を運ぶ観客に、謙虚かつ誠実にではあるが、
あくまで対等のサービスで返礼しようとしただけである。
そこには客に媚びる姿勢など微塵もない。
芸能であれ、ダイビングであれ、
すべてのビジネスにおいてサービス提供者と顧客の関係は、
この三波春男の場合もそうであるように、
対等なものであるのが資本主義社会の鉄則である。
提供される何らかのサービスに対して、対価として金銭が支払われる。
この交換関係が(主観的にであれ)対等でなく、
報酬(金銭)が高すぎると「ぼったくり」と呼ばれ、
サービスが過剰だと「ダンピング(不当廉売)」として、いずれも非難される。
(激安の過剰サービス大歓迎という方もおられるだろうが、
少なくとも同業者は眉をひそめるに違いない。)
これに対して、教育という場では教師と生徒のあいだに非対称的関係がある、
いやなければならないという議論がある。
たしかに教師と生徒の関係は通常の社会における人間関係とは違う。
つまり親子関係とも、友だち関係とも、職場における上司と部下の関係とも違い、
教師は常に生徒の前では絶対的な存在、三波春夫の話とは逆に、
サービス提供者の方が「神」のごとき存在であるし、
そうでなければならないという考え方がそれである。
その結果、「教育産業」としてのダイビング業界には、対等であるべきなのか、
権威的であるべきなのかというジレンマが生まれてしまう(かのように見える)。
だが本当にそんなジレンマが成立するのだろうか?
たしかに教育である限り、
そこにはある種の非対称的関係が不可避であるとパパもんも思う。
まず知識やスキルに関して、教師(イントラ)と生徒のあいだには
圧倒的な力量差がなければならない。
それだけの自信、いや自覚がない者には教える資格などない。
その意味で大学の学生潜水クラブに見られるような、
素人が素人を指導するなどということは、危なかっしくてパパもんは見てられない。
また教師もイントラも、厳正な「達成主義」を貫き通す絶対的評価者でなくてはならない。
水準に達していない生徒が金をいくら積もうと、
大学の単位も、ダイビングのCカードも渡してはならない。
資本主義社会では「金で買えないもの」など究極的に存在しないのかもしれないが、
教師もイントラも、そういう風潮に抵抗する最後の牙城でなくてはならない。
しかし前回も書いたように、教育には目的と手段というふたつの側面がある。
ダイビングにおける教育の「目的」は海中で生きられない人間が
それでも「海中世界を楽しむ」ことであり、その楽しみ方に関しては、
誰か他人が本人の頭ごなしに決めることでも、ましてや命令することでもない。
他方、様々なダイビング・スキル、知識の伝授、トレーニングは、
その目的を安全に実現するための手段である。
そして特に減圧理論など、日進月歩を遂げている領域では知識やスキルは10年もたてば陳腐化する。
そしてこういう知識やスキルの変化に関しては、
不断に勉強を続けているはずの教師(イントラ)が教育・啓蒙活動を通じて、
生徒に教えていく以外に一般に普及させていくことはできないのである。
パパもんはその意味で、本職である大学教育でも、ダイビング教育でも、
「半学半教」という、先生→生徒という
絶対的上下関係を排除したスタンスがあるべき姿だと思っている。
通常、この「半学半教」という福澤諭吉の思想は、教える者と学ぶ者の分を定めず、
相互に教え合い学び合う仕組みであると理解されている。
福澤の創立した慶應義塾が、巨大な教育機関に成長した今でも「塾」を名乗っているのも
そういう理由からである。(ちょっと宣伝がはいっちゃったかな。)
しかしパパもんはちょっと違った風にこの言葉を理解している。
つまり、人間は一生学ぶことはやめてはいけないし、みずから学びつつ、
後から生まれてきた者に対して自分の学んだ事を伝えていくことが、
先に生まれていた者の義務であると理解しているのだ。
人に何かを教えることが許されるのは、常に学びつつある者のみなのである。
(*)三波春夫『歌藝の天地-歌謡曲の源流を辿る』、PHP文庫