私を師匠と呼ばないで!
この数年、海外に出向く機会が多い。
その海外もある程度場所が限られていて、のべで考えるとそれなりに長く滞在している。
結果、今は「港港にお友あり」という感じ。
そして、今、テックダイブに関してざっくばらんな話の出来る指導者レベルの友人は、日本人よりむしろそうした外国の友人達に多い。
そうした友人は、基本、私がインストラクタートレーニングを受けたことで知り合ったインストラクタートレーナーやその友人達とか、現地で世話になったサービス関係者で、一般的な上下関係で言えば、私より格上のダイバーの比率が高い。
テックダイブのキャリアが豊富なベテラン揃いで、中には本当の意味での世界的なトップダイバーもいるが、彼らに共通しているのは、すべからくオープンマインドであることだ。
当然、それぞれが自分のダイビングスタイルやポリシーを持っているが、それだけに変に固執することなく、変な意地を張ることもなく、キャリアの面では格下の私が相手でも、異なる意見に耳を傾け、いいと思ったことはすぐに試してみたり、それまでの自身のスタイルに取り入れたり、ということをごく普通にやってのけている。
従って、話していてためになるし、楽しいし、刺激も多い。
加えて、会話がユーモアたっぷりで、下ネタ嫌いは皆無。
これで話が弾まないわけはない。
一方、日本にはダイビングにおいても、師弟関係で結ばれる、という関係性があるらしい。
私はそもそも師弟関係という奴が苦手。
特にダイビングにおけるこの師弟関係的な関係には恐れを感じている。
とりわけ、師匠という言葉がイメージさせる絶対性とか、権威のようなモノに対しては、ほぼネガティブなイメージしかない。
私は立場的には、師匠と呼ばれる可能性を持っているが、例えば、師匠と呼ばれてしまって、その気になったら、それは海外の友人達のオープンマインドとは正反対の、お先真っ暗なクローズした状況に自分自身を追い込むことになる気がしてならない。
それまでの考え方やスタイルの変更とか、知らないことを大手を振って知らないと断言することとか、間違ったことを素直に「間違えた!」ということとか、さらには流派の総本山からのお達し以外の意見に積極的に耳を傾けることなんかも、師匠という言葉の持つイメージとは相性が良くない気がする。
これら師匠との相性がよくない項目は、実は私にとって必要なら積極的に行うべき重要事項ばかりだ。
加えて師弟関係がイメージさせる師弟の間の垣根の高さも、私には否定すべきポイントである。
例えばメキシコでのケイブダイブのインストラクターコースはこんな雰囲気。
公園の木を使って陸上のラインワークのトレーニング中、全員の手が一斉に止まり、視線が全く同じ軌道で泳ぐ。
視線の先にはお約束のメキシコ美人。
その場を締めるのは、インストラクタートレーナーが美女に向かって言う一言「素晴らしいお尻をありがとう!」。
メキシコ美人は歩き去りながらちょこっと振り返り、にっこり笑って、お手手を振り振り。
最後はお尻もクィっ振って、角を曲がり、視界から消える。
「さぁ、続けるぞ」と言うインストトラクタートレーナーの一言でトレーニングは再開。
そこに師弟関係じみた関係があったら、こんな展開はないだろう。
そもそもがファーストネームで呼び合う垣根の低い関係がベースなところにもってきて、こんなんだから、インストラクター候補生はいつでも気軽にトーレーナーに意見を言えるし、気兼ねなしに何でも質問が出来る。
さらに、トレーナーはそうした質問に具体的で明確な答えを持っているし、万一、分からないことは隠さず、飾らず分からないと答え、その答えを探す作業を開始する。
こうした関係は、インストラクタートレーニングに限らず、ダイビング教育全般に関してとても重要なことだと私は思う。
こうした師弟制度とはある意味、対極と言えそうな環境がポピュラーでないことが、今の日本にありがちなバックボーンを重視しない、マニュアル頼みでハウツーを教えるだけの教育の温床のひとつとなっているのではないだろうか。
ダイビングを離れている間の私が、間違っても尊敬の念を抱かせないおバカな下ネタオヤジであることも、海外における私を、お仕事時間が終わったら速攻で夜遊びに出かけなくては気がすまないパロパロ野郎に見せかけていることも、全ては、関係するダイバーの方々と垣根を感じさせないお気軽な関係を築くための涙ぐましい努力なのだが、そのことは、決して人に悟られないよう、今も昔もこれからも、私だけの胸にしまっておくことにする。
ただ、これだけはお願いておきます。
私のことは、決して師匠と呼ばないで下さい。