25年目の鎮魂記 〜地底湖から天へ〜

25年前、地底湖でダイビング中に行方不明になっていた学生ダイバーのご遺体が収容された。

最初は収容作業が難航していてやきもきしていましたが、
見つかって、そして収容されて本当に良かった。
これで、やっとひと区切りついた気持ちです。

まさに、25年前、その時その場所で、行方不明となった朴俊鉄さんと共に
地底湖探検に挑んでいた案納昭則さんの率直な気持ちである。

案納さんに遺体発見の一報が届いたのは10月上旬。

晴天の霹靂。まさに、案納さんの全身を稲妻が走る。

発見したのはとあるテックダイバーグループ。
彼らは、当初から遺体の回収を目的として潜っていて、
発見までに潜水を繰り返し、10回ほど潜ったところで9月にご遺体を発見。
発見後、再度潜って確認、及び写真撮影したところで警察の調査が始まったらしい。
※”らしい”というのは、発見から回収までこのテックグループが行なっているが、
この活動に関しては、積極的に情報開示をしない意向のため。

案納さんに届いた一報は、警察がご遺族にご遺体の存在を知らせるために、
そのご遺体が朴さんその人であることを確実にすべく、
当時、一緒に潜っていた案納さんから情報収集するためにかけた電話だった。

一報を聞き、すぐにでも駆けつけ、自分で引き上げたいと思い、
テクニカル専門のダイバーを中心にその方法を探ったものの、
冷静になってみると自分ではすぐに無理だと思い知らされました。
そこで、ご遺族に報告が済んだ10日以降に
追悼会を開くことにしたのです。

しかし、出張中のアメリカで11月10日に引き揚げ作業が決定したことを聞くと、
帰国日10日の翌日11日には、現場である奥多摩の地に立っていた。

収容作業の話を聞いて、いてもたってもいられず駆けつけました。
とはいえ、警察は現場に感情を持ち込みたくないという事で、
お手伝いをさせていただくことはおろか、
収容作業に従事するダイバーにお会いして激励する事も、
現場で見守る事すらままなりませんでした。

現場から離れ、祈ることしかできない案納さんは、
翌12日はご遺族がいらっしゃるということで現場に向かうも作業は難航。
収容されたとの知らせを聞いたのは13日の夜となった。

案納さんにとってこの25年間は、止まったままの時間であった。

遡ること25年前。

上智大学の4年生であった朴さんは、雑誌で見つけた奥多摩地底湖の記事に心を奪われ、
「洞窟の先を見てみたい」と並々ならぬ情熱を燃やしていたという。

潜水部の主将を務めていた朴さんは、現役を引退し、
執行部の重責から解放された4年生のタイミングを見計らい、
数人のメンバーを集めて地底湖探検を計画した。

諸事情により最初の計画は延期になったがそれでも朴さんの熱意は衰えることなく、
すぐに次の計画が練られ、実行に移された。
そんな再挑戦のときに、たまたまメンバーになったのが案納さんだった。

1986年10月26日。
朴さんと、同期の案納さん、そして、後輩2人で地底湖探検は始まった。

奥多摩駅の北およそ6キロの川乗谷山腹にあるこの洞窟。
入口から20m進んだところに水深4mの第一地底湖があり、
さらに40m進むと高さ15mの滝になっていて、
ここを乗り越えると未知なる第二地底湖が待ち受けている。

案納さんらが第二地底湖手前で休憩しているときのこと。

朴君は、「ちょいと行ってくる」といった感じで、
1人で気軽にフラッと第二地底湖に潜っていったんです。
本来、主将を任されるだけあって、
朴君は沈着冷静な性格で自分の方が破天荒キャラ。
そんな朴君がこの探検に関してだけは熱くなっていたので、
むしろ私はストッパーになろうと思って参加した探検だったのですが、
このときは、本当にあっさりというか、
止める間もなく潜りに行ってしまったのです。


時間になっても戻ってこない朴さんを心配した案納さんは、
すぐさま陸上からライフラインとなるロープを手繰って第二地底湖を潜っていく。

行く手を阻むのは、タンクをはずしても、人ひとり通れるかどうかの
第二地底湖の最も狭い穴。

その先は前人未到の未知なる世界。
だからこそ、朴さんが情熱を注いだ沈黙の世界。

穴の入口の手前で案納さんは、恐る恐るロープを手繰り寄せる。
本来、そのロープの先には朴君がいるはずなのだが、
手繰っているロープの感触は、テンションを感じず嫌な予感は膨らむばかり。
そして、案の定、ロープは途切れ、その先は地底湖の闇が広がっているだけだった。

第二地底湖の先には空間があって、そこで浮上していることを
祈るような思いで期待するほかありませんでした……。

案納さんの期待とは裏腹に、朴さんは見つかることなく時間ばかりが過ぎていく。
当事者、ましてや親友の事故。冷静さを保つことが無理だと判断された案納さんは、
OBや捜索班から、現場へ近付くことを禁じられた。

その後、朴さんの親族がポンプで第一地底湖の水をすべて、
第二地底湖の水もおおよそ抜いて捜索が続けられたがついに発見にはいたらず、
2日あまりで捜索は打ち切り。朴さんは25年の眠りにつくことになる。

事故後、茫然自失で、1カ月ぐらいの記憶が飛んでしまっているんです。
思い出そうとしても、未だにうまく思い出せません。


しかし、卒業後、安納さんはダイビングを職業として選択。

むしろ、きちんと気持ちを整理するためにも、
ダイビングに向き合いたいと思いました。
きちんと安全に潜ること、事故を起こさないことによって、
自分の気持ちに整理がつく気もしたのです。


沖縄ダイビングの安全のため、沖縄県ダイビング安全対策協議会の活動に
尽力し続けてきたのも、この事故と無関係ではなかったのかもしれない。

そして、25年後、突然その時は訪れた。冒頭の言葉をもう一度。

見つかって、そして収容されて本当
に良かった。
これで、やっとひと区切りついた気持ちです。

発見して頂いたお二人のダイバー、
引揚げを担当されたダイバーさんをはじめ、
警察関係者に心から謝意を表します。

決して忘れることはできない。いや忘れない。
しかし、25年の月日を経て、案納さんの”あの日”にひと区切りがついたのも確かである。

このお話、いろいろな受け止め方がある。
「無茶だったのでは?」「無念だったろう」「何がいけなかったか検証すべきでは?」などなど。
当時、法政のダイビングクラブ(僕の出身母体)が事故で活動停止となっている時期と重なり、
上智も活動停止にすべきでは?といった動きもあったと聞く。

でも、僕はこの25年も前の話は、無責任に、そして感傷的に受け止めることにした。

学生が元気で、ダイビングが冒険であった時代のワクワクする話。
ダイバーは皆、小さなコロンブスであり、クストーだった。
地底湖のその先を見てみたい。潜ってみよう、探検してみよう。
そんな若くて眩しいキラキラした熱い思いが25年の時を経て蘇った。

一瞬だけでも、確かに朴さんがそこにいて、その思いが僕らの胸を去来する。
「もっとダイビングってすげぇんだぜ」。そんな声が聞こえてくる。
これでいいのではないだろうか。

死んでも生き続ける。

この記事を、僭越ながら朴さんのレクイエムとしたい。

朴さん、無責任だけど、僕はあなたがとてもうらやましいです。

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writer
PROFILE
法政大学アクアダイビング時にダイビングインストラクター資格を取得。
卒業後は、ダイビング誌の編集者として世界の海を行脚。
潜ったダイビングポイントは500を超え、夢は誰よりもいろんな海を潜ること。
ダイビング入門誌副編集長を経て、「ocean+α」を立ち上げ初代編集長に。

現在、フリーランスとして、ダイバーがより安全に楽しく潜るため、新しい選択肢を提供するため、
そして、ダイビング業界で働く人が幸せになれる環境を作るために、深海に潜伏して活動中。

〇詳細プロフィール/コンタクト
https://divingman.co.jp/profile/
〇NPOプロジェクトセーフダイブ
http://safedive.or.jp/
〇問い合わせ・連絡先
teraniku@gmail.com

■著書:「スキルアップ寺子屋」、「スキルアップ寺子屋NEO」
■DVD:「絶対☆ダイビングスキル10」、「奥義☆ダイビングスキル20」
■安全ダイビング提言集
http://safedive.or.jp/journal
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