中村卓哉 “写真絵本”発売記念インタビュー

第4回:水中写真のアシスタントを経て沖縄へ

いぬたく

日芸の写真学科を卒業されてからは、水中写真をメインにされていたんでしょうか?中村征夫さんのアシスタントをされていたともうかがったのですが。

中村

大学卒業してすぐに、スコールという親父の会社に入るということは決めてました。一番身近に一番勉強になる師匠がいるので。
大学で卒業制作を終えた時期に、親父がテレビの取材で福井の方へ撮影しに行くことがあったんですね。テレビのカメラなんで200mぐらいのケーブルが船から繋がっていて、そのケーブルさばきのアシスタントとして一緒に潜ってくれと。
ナホトカ号というロシアのタンカーが座礁して、福井の三国町の海岸に重油がばーっとまみれて、テレビでもかなり報道されてるような大事故だったんですが(ナホトカ号重油流出事故 – Wikipedia)、その撮影のアシスタントとして初めて仕事をしました。スコールに入るちょっと前です。入社することは決まっていたので、「お前ちょっと来い」と。
3月で真冬ですよね、それこそ吹雪いてたりするんです。

いぬたく

冬の福井ですよね、はい。

中村

僕、ロクハンしか持ってなかったんです、みんなドライスーツじゃないですか。「うわぁ〜」って思って。
水温が10℃ぐらいで、もう寒くて寒くて。ライト持ちとかケーブルさばきってほとんど動かないでじっとしてるんですね。ロクハンだとちょっと動くだけで冷たい水が入ってくるじゃないですか。「プロの現場っていうのはこれなんだ」とその時に実感しました。
水中カメラマンって、最初のイメージだと、南国の海でカラフルな熱帯魚と戯れて、リゾートに泊まって、みたいなものがありましたけど、そういうのでは全くないなと思いましたね。

水中写真家・中村卓哉インタビュー

いぬたく

なるほど。その時の光景を想像すると、海岸に黒い重油がまみれているわけですよね。それも中村さんから見てショッキングな光景だったでしょうか?

中村

そうですね。
実は1回目は撮影ではなくボランティアで行ったんです。海岸の油まみれになった玉石をひとつひとつ雑巾で拭くという活動を地元の皆さんがやっていたので。親父の考え方なんですけど、カメラを持って写真だけ撮って帰るというのは、本来の水中カメラマンのあるべき姿ではないと。本当に海に恩恵を受けているわけだから、まずは海のためにできる限りのことをして、それでもしその地元の復興にあたってPRする活動などで写真が必要だという話があれば自分が潜って撮ると、そういうスタンスなんです。それを聞いて僕もなるほどなと。
最初はなぜカメラを持って行かないんだろうと思っていたんですが、そういう考え方もすごく影響を受けました。

いぬたく

それは素晴らしい考え方ですね。
では、大学を出てからは水中写真をたくさん撮られていたんでしょうか?

中村

最初は水中の仕事っていうのはほとんどなくて、結婚式場のスナップとか、料理の物撮りとか、モデルさんを撮ったりとか、スタジオの撮影ですね。仕事としてやってたのはほとんど陸の撮影でしたね。
海の写真っていうのは、自分の中では「いつも仕事だ」というモチベーションを上げて海には行っていたんですけれども。
ただまぁ、ここが自分は一番いけないところだと思うんですけど、若い頃は自分がよければいいと、写真も自分が楽しめればいいと思っていて。撮ってきた水中写真をどこにも発表せずにいたんですね。
見せる相手と言ったら親父ぐらいなんですけど、見せてもいつも無言でプイッと返されるだけなので、どこが良いか悪いかも分からなくて。まぁ、カメラマンとアシスタントの関係って、そんなに技術を教えるっていうことほとんどないと思うんです。ですから、自分でプリントして、アルバムに入れて、見せるって言っても友達とかその程度のもので。ほんとに自己満足。
カメラマンという風に名乗っても「水中」はつけたりつけなかったりで、ある意味水中カメラマンの“ニート”っていうか。部屋に引きこもるんではなく、海には行くんですけれど、どこにも発表せずに自己満足で終わってるっていう感じでしたね、ずっと。

いぬたく

そういう時期があったんですね。その“ニート”から意識が外向きになっていったのはいつぐらいだったんでしょうか?

中村

父親の会社を辞めまして、沖縄に4年間くらい住んでいたんです。その時に一番変わりましたね。

いぬたく

あ、スコールを辞められたんですね。それはどうしてだったんでしょうか?

中村

カメラマンって、長く手伝ってもらってるアシスタントを手放したくないと思うんですよ。新しいスタッフに来てもらって1から教えるというのは、やっぱり体力も必要だし、根気よく教えなきゃいけないし。
ただ、親父の会社のスタイルは全く違うんですね。仕事は忙しいんですけど、休みの日に家で寝てるような奴はうちには来なくていいという考え方なんです。つまり、「自分の作品撮りをしっかりしろ」と。ずっと助手でいたいと思ってる甘えた奴はうちには要らない、いつかは絶対独立しろ、と。
それで僕も親父の会社で3年くらいアシスタントをやった後にダイビングインストラクターになりました。それまで作業ダイバー的な潜り方しかしてなかったんで、まずは魚の見つけ方とかそういうところから学んで、それから沖縄に行きました。

いぬたく

そうやって行った沖縄で、意識が外向きになった、と。

中村

海が近い環境にあって、毎日海へ潜れる、作品がどんどん溜まっていく。ただ、売り込む場所がほとんどなかったんです。でも、すごく見せたい。
自分の欲求としては、「撮りたい」よりも「見せたい」という欲求が常に高いんですね。ただ、見せる環境というのがまだない。それで、いろいろと売り込みに行くんです。
図書館であらゆる出版社の電話番号を控えて、海の写真を扱っているような出版社に電話してみたり。それでも断られたりして、その時に「これじゃ駄目だ」と自覚して、なるべく何か発表できる機会があるようなところにこの写真を持ち込まなきゃいけない、と。それが理由で沖縄を引き払って東京に拠点を戻したんですね。

水中写真家・中村卓哉インタビュー

いぬたく

沖縄では、もう潜ってばかりという毎日でしたか?

中村

はい、車がなかったので、毎日バスでポイントまで行ってましたね。
松山っていう飲み屋街に住んでたんですよ。空港にも泊港にもアクセスがいい場所って考えて不動産屋さんに訊いたら、「家賃が安くて、松山って場所がありますよ」って言われて。昼間に見に行ったら、コンビニもあるし静かな所だしいいなぁと思って。そうしたら初日の夜、もう周りがうるさくてうるさくて(笑)
海には、「航空隊前」っていうバス停で降りて砂辺というポイントで潜ってました。

いぬたく

今も有名なビーチポイントですね。

中村

何百円というタンク代と、ウエイトを借りるのもお金がないので、死んだクサビライシをエントリーポイントに溜めておきまして(笑) 小さくて、比重がけっこう重いので。冬場でもラッシュガードで潜って、ウエイトなしで、クサビライシをパンパンに詰めて。

いぬたく

その頃は貯金を切り崩しながら自分の水中写真作品を生むことに投資をしていた、という状態だったんでしょうか?

中村

食費なんて1日500円もかけなかったですね。それでガリガリに痩せちゃって。
毎日海に潜ってても飯はカップラーメン1つとか、そんな生活でしたから。とにかく海だけは絶やさずに毎日作品撮りをしよう、と。そこにお金を使おうと。
当時はデジタルカメラなんてなかったんで、リバーサルフィルム高いじゃないですか?

いぬたく

フィルム代に一番お金がかかるんじゃないですか?

中村

フィルム代、現像代、それだけでもうねぇ。だから大事に大事に撮ってましたね。
仕上がりを見るまでドキドキして、失敗は許されないですよね。その点やっぱりフィルムっていうのは、枚数が撮れない分、思いがちょっと違うっていうんですかね。

いぬたく

そこに賭ける集中力が違うでしょうね。

中村

はい。デジタルカメラでも、とりあえず液晶で見れるからいいやじゃなくって、1枚1枚データづけをして。失敗したら「なぜだろう?」って考えるようにすれば同じなんですけどね。やっぱりフィルムだと、お金かかってるところは違いますよね。

水中写真家・中村卓哉インタビュー

いぬたく

沖縄ではそうやってお金がない中で毎日作品を撮っていた、と。

中村

家賃3万の12畳、まぁすごい汚いアパートだったんですが、3年間で居候が10人くらいいたんですよ、入れ替わり立ち替わりで。
自分もそうですけど、夢を持って沖縄にぽーんと移住して、飲み屋をやりたいとか、ダイビングのインストラクターになりたいとか、周りにそういう奴がいっぱいいたんで。
それである日一緒にニュース番組を見ていたら、普天間基地が辺野古に移転するというニュースが出ていまして。「東海岸の海って行ったことないよね」っていう話になって。どんなところなんだろうとすごく興味があって、とりあえずタンクだけ借りて、車で行ったんですよ。
それが辺野古の大浦湾へ潜るきっかけでしたね。

中村卓哉 “写真絵本”発売記念インタビュー

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