宮城県石巻市リポート その4

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宮城県石巻市内は、早い速度で復興へと進んでいます。4月末からは、お店を綺麗に掃除をして、営業再開する店も増えてきました。石巻市内では、食事も出来る店も増え、ガソリンも普通に入れられるようになりました。その反面、被害のひどい所は、家も財産も、仕事も車も船も何もかも無くなっていて、避難所生活はいつまで続くのだろうか、私たちは、これからどうしたらいいのかという不安な気持ちを抱かずにはいられない住民の皆さんがいます。家族で避難し、お年寄りやお子さんは、かなり疲れきっていました。
そんな中での、避難所解散というつらい現実も近々にあり、第二の避難所を探さねばならない人もたくさんいます。仕事や学校を再開させるには、被災者がいると出来ないところもあり、復興していくためにも、そういう問題をかかえているのです。
被害が最もひどいと言われている宮城県石巻市の牡鹿半島ですが、今回は最も被害のひどい場所を地元のボランティアさんにお願いして、見に行くことにしました。
僕が最初に、物資が届かないということで、牡鹿半島の西側の小淵浜に入ったのですが、東側や南側の場所の被害はさらに酷い状況でした。
牡鹿半島は、石巻市内の東側に位置し、北から南に20キロぐらい伸びている半島です。
美しい海岸がたくさんあった半島で、大自然の中に、多くの野生の鹿がいます。そんなところから、牡鹿半島と言われるようになったのかな?
今回の津波は、牡鹿半島の東側から押し寄せてきたので、牡鹿半島の東側に位置している女川町の被害はとても酷く、その被害の凄さには目を覆いたくなるほどでした。
ここに町があったとは思えない光景が広がっていました。
倒れたビルや破壊された水産加工場
4階立ての建物の屋上には津波で流された車が引っかかっていました。
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高台にある病院の1階まで津波が来ていたので、町は完全に水没して、津波の高さは20mは超えていたことが想像できます。
今回は、道が困難でいけませんでしたが、寄磯浜は、さらに酷い状況ようです。
寄磯浜から南下したところに、鮫浦、谷川浜(やがわはま)がある鮫浦湾の被害の規模は、さらに酷く家も道路もありません。
家々のあった奥には、高い木々がある森があるのですが、そのあたりまで津波が来ていて、木々の生えている根元をかなりの高さまでえぐれた跡がありました。
その光景から想像すると、ここも津波は10mをゆうに超えています。
今は、青くて綺麗な海を望む高台にある谷川小学校は、鉄筋の建物は残っているものの学校の中は、津波によって破壊されていました。
学校の正面の高いところに、時計があるのですが、時計の2/3まで津波に使った後があり、時計は3時25分に止まっていました。地震発生後30分後です。
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今回、谷川小学校の両親、子供たちがいる避難所にも行きましたが、大好きなAKB48のグッズを届けることが出来ましたが、会うことは出来ませんでした。みんなどんな気持ちでいるのかな?
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そんな気持ちを抑えつつ、さらに牡鹿半島を南下し、鮎川という大きな町に向かいました。
ここには、石巻市牡鹿総合支所ありました。支所は高台にあることから津波の被害は免れたので、役場の人や自衛隊が牡鹿半島を全体に管理する災害対策本部がおかれています。
そこで、石巻市の職員の方と話すことが出来たのですが、話すことも疲れてしまっているようで、疲れた様子から詳しい話を聞くのは申し訳ない気持ちになりました。
そんな時、単独で東京から来たボランティアと出会いました。
彼は、震災後2週間目に石巻に入り、ボランティア活動を続けている人でした。彼の行動力は、後から入ってきた自衛隊の救助活動にも貢献してして、今では自衛隊にもいろいろ意見を言えるようになっていました。その人は、木村さんというのですが、僕がダイビング仲間で、牡鹿半島に物資を届けた事を伝えると、木村さんも、以前、神津島でダイビングインストラクターをしていたとの事で、仲良くなり、その方から牡鹿半島の状況をかなり詳しく聞くことが出来ました。
僕自身は、被害の大きさから、最初にかかわった牡鹿半島の小淵浜の人たち、海を愛する僕として小淵浜の猟師の応援が出来ればと思い、そこを中心に支援活動をしょうと決めています。
続く

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