沖縄の重鎮がダイビングの深淵を語る新連載スタート
沖縄本島にて「国際潜水教育科学研究所」の看板を掲げている村田幸雄です。
私がダイビングを始めたのは大学時代、といっても大学でのダイビングクラブ出身ではありません。
多摩地区の市営プールの監視員の仕事をしていたときのこと。
プールのある市役所にダイビングクラブがあり、その方々がプール練習をする際に現場の立ち会い責任者をしていたのです。
興味津々の眼差しを察した市役所の職員から、タンクとレギュレーターの使い方を教わり、実際にプールで体験させてもらい、完全にダイビングの虜になりました。
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1976年11月にNAUIのインストラクター資格を取得して以来、インストラクター、コースディレクターとして活動し、約20年間は東京、以後の20年は沖縄に移住して現在に至っています。
仕事柄、初心者指導からインストラクター育成のダイビング人生で、インストラクター歴は37年を迎えました。
編集長の寺山君も私のITCの受講生でしたが、お世辞にも、優秀な生徒とは言えなかったかもしれません(笑)
当時は、延べで10日間、完全合宿型の指導員コースでした。
寝食を共にしながら学科、実技、トレーニング、練習、検定、試験を行っていました。
食事の食べ方、特にお箸の持ち方からはじまり、食べ方までチェックが入っていました。
大学の潜水クラブ出身の通称“学連”の安全対策担当だった学生さんが受講することが多かった時代でした。
相当、追い込みました。
学科の点数は、相当厳しかったように記憶しています。
最終評価の部分で、ド壺にはまっておりましたが、何とかクリアしてNAUIインストラクターに認定されました。
睡眠時間は、3時間程度の連続でした。
平成6年から公的救助機関の航空機を使っての救助対応の研究を開始。
現在のようにドクターヘリでの医療搬送のシステムがなかった時代なので、潜水事故が起きた際の救助手段が選択肢が乏しく、時期的に海上保安庁がヘリコプター搭載型の巡視船を配備し始めた時期でもあった。
海上保安庁から沖縄の第十一管区海上保安本部を紹介して頂き、東京と那覇、石垣と行き来しながら実際の潜水事故対応でのヘリコプターの活用法を研究しておりました。
平成20年には自身が潜水事故の当事者となり、九死に一生を得て以後は、医療的な経過観察状態です(事故の詳細についてはいずれ)。
そんな経験から、より一層、“安全に潜るためには何が必要なのか”、不幸にして、事故が発生した際に、“迅速に医療機関までの搬送は如何にすべきか”、そもそも“何故、潜水事故が起きるのだろうか”を考えるようになりました。
連載では、難しい話はせずに、皆様のお役に立てそうな内容にまとめていきたいと思っています。
皆様からのご質問をお待ちしています。