合掌
ダイビング業界に生きる人間に多大な影響を与えた殿塚孝昌さんがお亡くなりになった。
55歳という早過ぎる死に、僕の周りの人間も少なからずショックを受けている。
バリで《ダイブ&ダイブス》というダイビングサービスを経営なさり、
水中写真家としてインドネシアの海を5年以上かけて3冊から成る魚図鑑を完成させ、
日本ではウミウシのガイドブックなども出版。
そんなガイドや写真家としての確固たる仕事はもちろんなのだが、
多くのダイバーが魅かれたのはその人柄だろう。
僕にとっては雲の上の存在で、
僕が尊敬したり憧れるダイビング業界の方が、
「師匠」、「親愛なる人」と尊敬したり憧れる存在だった。
特に、20年以上ダイビング業界で働くゴット姉さんの口からよく聞く名前で、
ゴット姉さんが大好きな人であり、
僕なんかよりゴット姉さんの日記にトノさんの人柄がよく現れている。
■ゴット姉さんの日記より
「ダイビングがカッコよくて楽しいこと、
バリの海がマンボウやマンタの出るスゴイ海だってこと、
既存のスポット以外にも、ものすごいところがあること、
生物に目を向けるといろんな世界が広がっていることなどなど、
ダイビングだけをとっても、
今ではフツーになっていることを20年ぐらい前に教えていただいた
また、バリでも日本でも、
人生を楽しむには”おいしい食べ物”がなきゃ始まらないってことで、
あっちこっちに連れていっていただいたりもした。
(もちろん、私一人じゃなくて、一緒に連れていってもらった人はいっぱいいます)。
カラオケもまだBOXなんてなくて、ほかのお客さんがいる前で歌う時代から、
エンターテイナーとしてどこへ行っても人気者になっていた
たぶん、私なんかは濃〜いTONOさんの人生の中の塵みたいなもんなんだろうけれど、
私の中ではすごーく大きな体験、経験の数々でした。
9月4日17時30分(バリ時間)
55歳という若さでこの世を去った原因はいろいろあるそうだが、
“カッコよく生きること”をモットーとしていたTONOさんは、
おそらく、細く長く生きることを望んでいなかったように思う。
太く短く生きることを望んでいたんだと思う。
そして、その人生がご本人のおっしゃるとおり、
ものすごーく濃かったとはいえ、残された者にはたまりません。
奥様や、TONOさんを慕って集まってきたガイドさんたちのことを思うと
いたたまれません。でも乗り越えていかなくてはならないなんて。
TONOさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌」
僕がトノさんと接点を持ったのは2度。
初めて会ったのはバリ取材のとき。
当時、トノさんは『マリンダイビング』の不義理に対して、十分に怒っていい資格を持っていた。
にもかかわらず、「ゴット姉さんからよろしくって言われているよ」と、
わざわざホテルまで迎えにきていただき、
高級イタリアンで最高のもてなしをしていただいた。
同席していた方が少しだけ不満を言ったときも、
「いいからいいから」とただひたすら業界のおもしろい昔話をしていただいた。
僕もお金の臭いのするアポが他にたくさんあったが、
「もういいや」とトノさんとずっとお話をさせていただいた。
そう思わせる人。
帰り際に「今度は男だけでもな」とニヤリとした笑顔はまるで子供ようだった。
その後、ゴット姉さんに連れられ東京で一緒に食事をさせていただいたのが
僕とトノさんの最後の接点。
「何にもとらわれず、好きなように生きる」を貫いた(もしくは、貫いたように見せた)
生き方はとびきり格好よかった。
初対面のときから、「赤塚不二夫さんのような人」というのが、勝手な僕の印象。
タモさんが赤塚さんを語った時の言葉、
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、
前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、
また時間は前後関係を断ち放たれて、
その時その場が異様に明るく感じられます」は、
まさに少ないながらの僕のトノさんの印象。
2回しかお会いしたことがなく勝手な解釈この上ないが、
「明日死ぬかも知れないんだから、先ばっかり考えても仕方ないだろ」の言葉は、
今まさに思い出される言葉。
やはり勝手なご都合主義の解釈だが、
トノさんは悔いなく太く生きたのだろうと僕は思うが、
悔いや弱さを知っているであろうご家族の心中は違うところにあるのかもしれない。
心よりご冥福をお祈りします。
合掌