三原山の大噴火 「船の明かりがどんなに心強かったか」

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こんにちは。須賀潮美です。
週末は「渚の美術協会」の協力を得て、法政アクアの面々で海岸清掃を行うとともに、
拾った貝殻で作品作りを楽しみました。それにしても、ゴミの多さには絶句……。

さて、今回も伊豆大島の噴火の続きを。

伊豆大島で海に噴石が降り注ぐ映像を撮った後、波浮港に引き上げると、
船長の奥さんが「あんたたち何やってるの。
私たちはこれから逃げるの。みんなも早く逃げて!」と、
血相を変えて飛んできた。

当時はまだ携帯電話がなかったため、船長の家で電話を借り
「ニュースステーション」のスタッフルームと連絡をとると、
伊豆大島で水中班が消息不明と大騒ぎになっていた。

報道一筋、百戦錬磨のKディレクターは無事を伝えると
直ちに臨戦体勢に入り、現状リポートを入れる。
その様子はテレビ朝日の緊急報道特番の生放送中にOAされた。

特番では、三原山の噴火口以外の場所から地割れ噴火が起き、
元町方面に溶岩が近づいている。
今後どこが噴火してもおかしくない状況のため、
全島民の島外避難が始まると伝えていた。
さて、これから水中班はどうすべきか、
Kディレクターは、現場の取材をしながらスタッフを避難させると決め、
まず、食料を確保するため、私を食料品店に走らせた。

このとき、立松和平さんは翌日に入る予定になっていたことから、
陸上取材班はいない。音声や照明スタッフもいない中、
頼りは水中ハウジングから取り出したビデオカメラとわずかなテープだけ。
最低限の機材で取材体制を整えた。
先程までチャーターしていた漁船の船長からは
「これから三浦半島まで船で逃げる。いっしょに行かないか」という申し出を受けた。
そこで、まずはタンクや水中カメラハウジング、ケーブル、ダイビング器材など、
地上の移動では足かせとなる機材とスタッフのNさんが同乗させてもらうことになった。

Nさんが乗り込んだ漁船はラジオで情報を収集しつつ三浦半島を目指したが、
船長が到着を目前に「俺だけ逃げるわけにはいかない」と引き返そうとするなど、
NさんにはNさんの脱出ストーリーがあったようだ。
残りのスタッフは、取材をしながら車で元町港を目指した。

途中、出会った消防団に状況を聞くと
「溶岩がもう元町まで来ている。もう元町はダメだ」と言うが、
30分前に見たテレビでは元町から生中継も行われていて、
差し迫った状況ではない。停電もしていない、電話も通じる状況でも、
混乱した災害現場では正しい情報は届かず、デマも飛ぶことを実感した。

元町に入ると、沖には東海汽船、海上自衛隊、海上保安庁などの船が、
島民の乗せるために待機していた。地震が頻発し、常に地面は揺れている。
噴火音が「ド〜ン、ド〜ン」と鳴り響き、
三原山からは真っ赤に溶岩が吹き上がっているのも見える。
大噴火がいつ起きるかもしれない孤立した島で、
多くの船の明かりが沖に見えるのは、どんなに心強かったか。

島民の皆さんは、荷物はボストンバック1個に制限される中、粛々と避難していく。
夕方から始まった全島民1万人の避難は、
混乱することもなく夜中の2時過ぎに完了した(島民の避難生活はその後1か月に及んだ)。
ビデオテープも尽き、これ以上取材出来なくなった私たちは、
最後の避難船に乗り込み、島を後にした。

当時は大学を卒業して1年にも満たないヒヨッ子だった私が
伊豆大島で報道最前線の現場を経験し、
その臨場感、緊張感にますますのめり込んでいった。

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