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1日にゲスト800人の日も!海洋写真家・峯水亮のガイド時代とは閲覧無制限

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徒然コラム

ダイビングのメッカ・大瀬崎のガイドを経て、海洋写真家となった峯水亮さん。

著書であるエビ・カニ類の図鑑をはじめ、今はクラゲや浮遊系プランクトンをテーマとしていることからも、“マクロ写真”や“生態写真”というイメージが強いのですが、意外なことに、目指すものは大型ほ乳類!?

峯水さんのガイド時の話や思いをお聞きしつつ、なぜ今、浮遊系なのかをひも解きます。

■聞き手/寺山英樹

はじめは、マスククリアもできずに溺れかけた問題児だった!?

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まず、そもそもダイビングを始めたきっかけを教えてください。

峯水

私がダイビングと出会ったのは1990年、西伊豆の大瀬崎でのことです。
大瀬崎の入り口にある「PAPAS CLUB」の土屋誠さんに、初めて体験ダイビングをして頂きました。

でも、当時は真冬の海だったこともあり、お借りしたウエットスーツで潜った私は、とにかく寒くて“ブルブル”と震えながら、マスククリアもうまくできずに溺れかけた問題児でした。
たぶん当時はろくに泳ぐこともできなかったと思います。

―――

今からは想像つきませんね。当たり前ですが、水中のプロも初めは初心者ということがわかり、何だか励みになりますね(笑)。そこで、めげなかったんですね?

峯水

大変な体験ダイビングでしたが、マスク越しにクリアに見えた海の中には、たくさんの魚がすぐそばで泳いでいたり、真っ青なソラスズメダイたちがいて、その瞬間「こんな素晴らしい世界は、たくさんの人に伝えなくちゃ」と思いました。

―――

自分が楽しむのを超えて、いきなり“伝えたい”。
体験ダイビングの時からプロになる決意があったのでしょうか?

峯水

はい。
それからというもの、週末のたびに大瀬崎で講習を受けてライセンスのステップアップを続け、そして数か月後には当時勤めていた会社を辞めて、「PAPAS CLUB」のスタッフとなったのです。
その間も、とにかく時間があれば海に潜りに行って、土屋さんには生物のことや水中写真など、いろんなダイビングの楽しさを教わりました。

そして、初ダイブから約一年半後には大瀬崎でのガイドデビューとなったのです。
しかし、当時のゲストと関わっていくうちに、講習ができないダイブマスターではどこか物足りなくなり、次第にインストラクターにならなければと思うようになりました。

そのことを土屋さんに相談したところ、次の就職先に「大瀬館マリンサービス」を紹介していただきました。
そこで出会った大瀬館の安田社長にさらに影響を受けることとなったのです。
初ダイブから2年後に、今度は大瀬館でガイドをしながらインストラクターを目指すこととなりました。

大瀬崎の海

峯水さんのダイビングのきっかけとなった大瀬崎の海

大瀬崎湾内のキアンコウ(撮影:峯水亮)

花のようなムラサキハナギンチャクが咲く大瀬崎の湾内。そのそばにキアンコウがひっそりと隠れている

写真を始めたきっかけは、“生物を知ること”

―――

ガイドをしている時からすでに写真は撮っていたのでしょうか?

峯水

93年にインストラクターとなった私は、大瀬館でガイドとして働き始めたものの、当時のゲストは私よりも古くから大瀬崎で潜っていた人ばかり。
最初のうちは、大瀬崎のガイドという立場とその経験のギャップに葛藤を覚えた日々でした。

でも、どれだけ長く潜っていても、毎日この海で潜り続けていけば、一年後にはその方たちの知らない情報を提供できたり、経験を追い抜くことは可能だと思いました。
だから、仕事でのガイド以外にも、時間さえあれば潜って生き物を探していました。

それと同時に写真も撮ることで、生き物のいた環境や名前をより正確に覚えようと思いました。
私が写真を始めたきっかけは、生き物を知ることが目的だったのです。

当時の大瀬崎は関東圏から通いやすい、そして面白いダイビング地としても有名でした。
しかし、日本のダイビングポイントで、有名なガイドさんと言えば、各地に代表するガイドさんの名前が挙がる中、大瀬崎の○○と呼ばれるようなガイドさんはいなかったのです。
私はそれが悔しくて、いつか大瀬崎のガイドといえば“峯水”と呼ばれるようになることを目指していました。

当時は並びのショップスタッフはもちろんのこと、同僚のスタッフでさえも競争相手でした。
私たちの姿勢に安田社長も積極的に協力してくれて、同時に、大瀬崎でのガイドの在り方や、3年、5年、7年、15年というスパンでの仕事の目標と節目の話など、色々な話を聞かせてもらいながら、将来について導いてくれたのです。

―――

ガイドがみな職人の古き良き時代という感じですね。バブルが終わっていたとはいえ、東の横綱・伊豆海洋公園、西の横綱・大瀬崎といわれ、とてつもないダイバーが通っていたころですよね。

峯水

そうですね。
その頃、次第にダイビング業界にはフィッシュウオッチングブームが押し寄せて、大瀬崎はそのメッカの一つとなりました。
当時、大瀬館のゲストは、週末となれば1日に150~200人ほどは当たり前で、秋には800人を超えたこともありました。

受付からタンクチャージ、ガイドまでをほぼ3~4名のスタッフでこなしておりましたので、仕事はかなりハードだったのですが、何よりもガイドのゲストや来てくれるショップさんにその時の海の面白さを伝えられることが楽しかったです。
体力を使うし、ご飯もむちゃくちゃ食べていたのですが、当時の体重は今では考えられない、わずか48kgでした。

峯水亮プロフィール

大瀬館でガイドとして働いていたおそらく24歳頃の峯水さん。当時はガイドの後に着替える暇もなく、夜までチャージしていることもあった(撮影:阿部秀樹氏)

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1店で800人! そして、48キロ! 何だか、いろいろ数字がめちゃくちゃですね(笑)。そんな隆盛の大瀬崎で、なぜプロカメラマンになることを目指すことになったのでしょうか?

峯水

ガイドとしてはとても充実した時間を過ごしていましたが、自分が40代や50代になった時に、同じように続けられるとは思えず、いつかは違う形にしていかなければならないとも考えるようになりました。

ダイビング誌の大瀬崎特集でガイドをする機会がちょくちょくあり、写真家の中村征夫さんや吉野雄輔さんのほか、プロカメラマンの仕事を間近で見てきたことにも影響を受けました。

また、益田一先生が率いる伊豆海洋公園(IOP)が刊行していた「I.O.P DIVING NEWS」の中で、クラブ&シュリンプ・ウオッチングというコーナーの連載を担当していたのですが、それをきっかけに、日本初の甲殻類の生態図鑑を製作しようと思うようになりました。

I.O.P DIVING NEWS

90年代、約40回に渡って連載したI.O.P DIVING NEWSの中のクラブ&シュリンプ・ウオッチング

峯水

冬休みに長期の取材で各地を巡って撮影し、その過程で国立科学博物館の武田正倫先生や千葉県立中央博物館・海の博物館の奥野淳兒先生とも交流を得るようになりました。

そして、大瀬崎の海に出会って7年目の節目となる97年に、私は大瀬館を退職し、次のステップであるカメラマンとして独立、峯水写真事務所を創設することになります。

それから3年後の2000年、ようやく530種の甲殻類を収録した「ネイチャーガイド 海の甲殻類/文一総合出版」が発売となりました。

「ネイチャーガイド 海の甲殻類/文一総合出版」

29歳の時に刊行した初著書「ネイチャーガイド 海の甲殻類/文一総合出版」

以下、後編に続きます!

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