南三陸町の海へ 3日目(最終日)
■南三陸町で潜る(3日目)
快晴。前日のうねりや濁りもおさまったので、
クリちゃんにお願いして潜ってみることに。ポイントは、海況を考え港内。
廃墟と化した港の建物前でセッティング。
冠水した港から、一色さん、かっつん、そして僕の3人でエントリー。
透明度が1〜2メートルの中、3人をロープでつないで慎重に進む。
最大でも水深6メートルほどの浅瀬は、水温は22度あるものの生物は少ない。
壁沿いに唯一の群れが見られるものの、
沖へ向かうと、目に入る生物はウニやアメフラシぐらい。
あとは、牡蠣やホタテなど養殖の残骸が散らばっている。
人の痕跡もちらほらと。醤油の入ったままのペットボトルやコンセントなど。
そして、写真立て。写真は朽ち、誰が笑っていたのかは知る由もない。
30分ほどでエグジットすると、漁師さんが寄ってきて「どうだった?」と水中に興味津々。
津波がさらっていった生活は海の中。でも、容易にのぞけない海の中。
「どうなっているのだろう?」は自然だし、まさにダイバーの出番。
作業ができなくても、伝えるだけでも喜んでくれる人は確実にいる。
批判は必ず起こるが、被災地での体験ダイビングも大ありだと思う。
※
午前中に1本だけ潜り、志津川エリアで、
震災の象徴ともなった「防災センター」に立ち寄る。
印象的だったのが、この防災センターで御子息を失った母親の悲痛なるメッセージ。
「こんな建物、早く取り壊してくれ」と。
原爆ドームのように被災の爪痕をある程度残すべきだと考えていた部外者の僕に
この母親に反論する言葉はなかなか見つからない。
※
仙台に戻り、かっつんと別れ、宮城の友人とランチ。
友人は女川をホームグラウンドにしていたダイバーで、
以前「マリンダイビング」で星占いのコーナーをやっていただいており、
僕が編集担当だったという間柄。
仙台近くに住んでいる友人は無事だったが、
被害の甚大だった雄勝町に住む母親と祖母を亡くしている。
母親が見つかったのは震災から3ヶ月後で、
対面した時の臭いが今でも記憶にこびりついていて、
「忘れたいような、忘れてはいけないような」と言う。
震災後、こうした話を誰ともできなかったそうで、
久し振りの再会と共に「本当に楽しい時間だった」と言っていただいたのがせめて救いだ。
また、ドリカムファンの友人が旦那様との初デートで観た映画を書いたのが一色さん。
サインを書いてもらってとても喜んでいた。
また、宮城で会いましょう。
※
かっつんのおかげで多くの人、場面と出会う濃密な3日間。
あまり言えることは多くないが、思い出すのが、
志津川でダイビングサービス「グラントスカルピン」を経営していた佐藤長明さんの言葉。
「それぞれに愛する海との距離感を保ちつつ、
被災地を見つめ続けていただけることが私にとって何よりの励みとなるでしょう」
■佐藤長明さんインタビュー→こちら
大事なことは忘れないこと。
そのために、僕は定期的に現地を訪れ、海からのアプローチを続けようと思うが、
できることは、人それぞれ。とりあえず行ってみて考えるのもありだと思う。
■一色さんの日記→こちら
(器材協力/ダイビングショップNANA)