日本初のダイブクルーズを展開したダイビング界のパイオニアが語るこの40年

宮古島初のダイビングショップ、日本初のダイビングクルーズを展開してきた、ダイビング界のパイオニア24°NORTH(ニーヨンノース)の渡真利将博さんに、テーマを絞らず、興味本位であれこれ聞いてみました。

24°NORTH(ニーヨンノース)の渡真利将博さん(撮影:越智隆治)

寺山

そもそもダイビングとの出会いはいつ、どのような形だったのでしょうか?

渡真利

最初はダイビングを仕事にするなんてことは思っていなくて、高校卒業後は東京でサラリーマンをしていました。
その時、ダイビングより先に、まずはヨットと出会ったんですよ。

寺山

ヨットを始めたのはなぜですか?

渡真利

沖縄の子供は「海に近づくな」って言われて育ちます。
子供が死ぬとなると病気じゃなければ海だから、海は怖くて危ないところだと言い聞かせるわけですね。
でも、することないから、やっぱりしょっちゅう海で遊んでいました(笑)。

それで、東京にいるときも海に遊びに行きたいと思ったとき、東京の人たちは海といえば湘南だという。
そうか、海で遊びたいなら湘南へ行けばいいんだなってことで、友達と湘南の海へ海水浴に行って衝撃を受けました。
濁っているし、油が浮いているし、とにかく汚くて驚いちゃってね(笑)。
これまで遊んできた海と違い過ぎて、結局、海に入れませんでしたよ。

それでも何度か行く機会があって、海をぼ~っと眺めていると、ヨットがたくさん走っています。
海に入るのは嫌だけど、海の上ならおもしろそうだとヨットを始めました。

那覇にいたとき、米軍基地の金網の外からアメリカ人の子供たちが乗るヨットを見て、「風に向かって進む、不思議な乗り物だな~」と好奇心を持って見ていたし、海も好きだったから、やってみたい気持ちはあって、湘南という場所がきっかけをくれた感じですね。

寺山

まだ、しばらくダイビングは出てこなそうですね(笑)

渡真利

でも、結果的にヨットがダイビングと出会うきっかけをくれたんです。

自然の力を利用して、自由自在に世界中に行けるヨットにすっかりハマって、仲間と西伊豆の三津浜(みとはま)にヨットを置いて休日の度に遊びに出かけていました。

ヨットは自主管理のためアンカーを張ったり、船底作業をするときに、どうしてもダイバーの力が必要となるので、当時、シートビア計画(科学技術庁の海中移住実験)の海底ハウスが三津浜にあって、計画に従事していた田中さんという方に作業のお願いをしていました。

そのうち、「ダイビングなんて簡単だから、教えてやるから自分たちでやれ」となって、ダイビングを教えてくれた。
これが、ダイビングとの出会い。
今でいう体験ダイビングってやつで、21歳ぐらいの時だったかな。

24°NORTH(ニーヨンノース)の渡真利将博さん(撮影:越智隆治)

寺山

そこでダイビングを覚えて、故郷でダイビングショップをオープンという流れですか?

渡真利

いや、それが違って、宮古島に帰ること自体、私にとって青天の霹靂でした。

5人兄弟の真ん中で、兄貴が家を継いでいましたが、事情があって出て行ってしまった。
そこで、私が呼び戻されることになって……。
今でも、あのとき、サラリーマンを続けていたらどうなっていたかなーなんて考えることがありますよ。

寺山

ずっと宮古島に住んでいる生粋のうちなんちゅーかと思っていましたが、湘南ボーイから止むを得ずの離島暮らしだったんですね(笑)。東京に戻りたくなったりしませんでしたか?

渡真利

26歳の時に宮古島に戻りましたが、実は高校は那覇だったので、中学を卒業して以来の宮古島。
那覇も割と都会ですから、何もない宮古島に来て、瞬間的に戻りたいなと思ったことはあります。
でも、覚悟を決めて戻ったわけだから、前に進むだけでしたね。

寺山

1975年の宮古島。何もないって、どれくらい何もなかったのでしょうか?

渡真利

当時、島には有線が一本しかありませんでした。
だから、電話しようと思ったら、まず交換手に申し込んでひたすら待つしかない。
いつつないでくれるかわからないし、前の人が長電話したら、電話の前でひたすら2時間待つなんてこともザラでした。

当時、東京では公衆電話で普通に電話がかけられたわけですから一気に戦後の世界(笑)。
それくらい当時は田舎で何もありませんでした。

寺山

そんな宮古島暮らしで、ダイビングショップを始めたのはいつからでしょうか?

渡真利

最初は、特にダイビングに限らず、釣りやヨットなど、海洋レジャー全般の遊びを始めました。
仕事というより遊びに近くて、観光客で希望があれば商売するといった感じ。
むしろ、当時立ち上げたヨットクラブの方がメインでした。

でも、そのうちダイビングをやりたいとい人も増えてきて、1977年ダイビングショップとしてオープン。
当時は、BCがなくハーネスで潜っていた時代。
空気の充填も、当初は航空自衛隊のコンプレッサーを使っていました。

寺山

バブル時代、ダイビングが一大ブームになりましたが、宮古島でも実感しましたか?

渡真利

バブルよりちょっと前の80年代前半くらいからブームになった実感があります。
そして、バブル全盛の80年代末から90年代前半くらいは大ブームになって、うちもスタッフが17人に増えて、商売が億の単位にあったのもこの時期です。

でも、ブームだけでなく、ブームのしわ寄せも実感しました。
都市部のダイビングショップがバンバンCカードを出して器材を売っちゃうもんだから、何にもできないダイバーがたくさん来ましてね。
海に行って、「さあセッティングしましょう」と言ったら、値札のついた新品のダイビング器材を箱から取り出し、ビニールから出して……って、本当にそんなこともありました(笑)

宮古島のダイビングショップ24°NORTH(ニーヨンノース)(撮影:越智隆治)

寺山

宮古島のダイビングは、端的に何が一番の魅力だと思いますか?

渡真利

ひと言でいうと、「地形は裏切らない」ってことでしょうか。
もちろん、サンゴもきれいだし、魚もおもしろいんだけど、地形はいつ来ても、いつ潜っても外れがありませんからね。

寺山

日本初のダイビングクルーズを始めましたが、きっかけは何でしょうか?

渡真利

そりゃ、もともとヨットが好きですからね。夢。
周囲にはとても反対されましたが(笑)、思い切ってやったら、需要もあって15年目を迎え、パラオ遠征などもしています。

経験してわかったと思いますが、港から行ったり来たりせず、洋上で好きなポイントを好きな時に潜るのは最高でしょ?
ゆったりと流れる時間の中、夜は満天の星のもと、おいしいものを食べて、飲んで語って。
これ以上の贅沢はあまりありませんよ。

人生は一度きり。好きなように生きなくちゃね。

24°NORTH(ニーヨンノース)

宮古島のダイビングショップ24°NORTH(ニーヨンノース)(撮影:越智隆治)

1977年オープンの老舗ダイビングショップ。
デイトリップはもちろん、25mのダイビングプールでの講習、コンドミニアム完備、カタマランのクルーズ船と、ハード面の充実は宮古島随一。
アンカーから料理まで何でもこなす右腕のキヨさん(脇本起代)と若手有望株のゆうた君が渡真利さんの脇を固める。

※ニーヨンノースのクルーズをご紹介した記事はこちら。
海と星空しかない贅沢。大人の休日・宮古島ダイビングクルーズ|オーシャナ

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PROFILE
法政大学アクアダイビング時にダイビングインストラクター資格を取得。
卒業後は、ダイビング誌の編集者として世界の海を行脚。
潜ったダイビングポイントは500を超え、夢は誰よりもいろんな海を潜ること。
ダイビング入門誌副編集長を経て、「ocean+α」を立ち上げ初代編集長に。

現在、フリーランスとして、ダイバーがより安全に楽しく潜るため、新しい選択肢を提供するため、
そして、ダイビング業界で働く人が幸せになれる環境を作るために、深海に潜伏して活動中。

〇詳細プロフィール/コンタクト
https://divingman.co.jp/profile/
〇NPOプロジェクトセーフダイブ
http://safedive.or.jp/
〇問い合わせ・連絡先
teraniku@gmail.com

■著書:「スキルアップ寺子屋」、「スキルアップ寺子屋NEO」
■DVD:「絶対☆ダイビングスキル10」、「奥義☆ダイビングスキル20」
■安全ダイビング提言集
http://safedive.or.jp/journal
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