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宮城県石巻市レポート1閲覧無制限

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現地からレポート
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被災地に支援物資を届けに行き、現地に行って被災者の方々の復興のお手伝いをしたいと思ったのは、震災後2週間を過ぎた頃からでした。写真家の越智隆治さんをはじめ、多くの方々の協力を得て、4月9日夜から10日に支援物資を届けるために、宮城県石巻市に行ってきました。ご協力いただいた皆様ありがとうございました。宮城県石巻市に行こうと思ったのは、故郷が被災した自然写真家・高砂淳二さんのお手伝いや実際に行った話しを聞けたことが大きかったです。
実際に被災地を見て、被災者の方々のお手伝いをし、みなさまの気持ちを踏まえて、失礼のないように声を聞き、現地で働くボランティアさんの声を聞いて来たこと感じたことを書かせてもらいたいと思います。情報は日々変わっていますので、現時点での報告(4/10)です。不公平や批判の声もあると思いますが、見えるところから、手を差し伸べて欲しい方々のお手伝いが出来たらいいなと思ってつたない文章ですが読んでいただければ幸いです。書きたいことはたくさんありますが、自分の考えを整理しつつ、少しずつ早めに書かせてもらいたいと思います。
9日の午後、2トン車のロングのレンタカーを借りて、うちにまとめてある支援物資ダンボール箱80個近くを積込、高砂淳二さん(20箱)、越智隆治さんの家(80箱)を回り、至急必要もので、足りないものをスーパーで補充し、水80リットル、灯油60リットル、ガソリン80リットル、軽油60リットルを買って、時間がかかってしまい出発時間は22時を過ぎていました。
浦安から首都高速を経由して、東北道に入り冨谷JCTから三陸道へと入りました。福島を過ぎたあたりから東北道には、段差ありの表示が増え、減速しないと運転するのがかなり困難でした。減速しながら段差を超えるのですが、かなりの衝撃が伝わってきます。もちろんひどい所は応急処置がされていました。宮城県に入ると速度規制も80キロから50キロとなり、道路の凸凹の激しくなりました。更に三陸道の凸凹はひどく、段差のあるところには、注意喚起のカラーコーンがおいてあるますが、あまりの多さに置いてないところも多く、油断してスピードを出すとハンドルを取られるので危険です。
給油に関しては、高速道路上は福島県、宮城県ではほぼ制限なく給油することが出来ました。
ただ、小さなパーキングでは営業時間が7時〜22時なので、注意が必要です。僕らは、東北道最後の大きなパーキング(吾妻?)給油をして、三陸道(石巻河南出口)を経て現地ボランティアの滞在先となっている石巻専修大学に向かいました。三陸道石巻河南出口を出で一般道を15分ほど走ると石巻専修大学が見えてきました。
石巻専修大学キャンパスに着いたのは、早朝5時だったので、キャンパス内に車を停めて仮眠することにしました。
キャンパス内のグランドには、テントが300〜400個あり、ボランティアの人達が滞在しています。
仮設トイレありましたが、水不足のため、手洗いの水はほとんどなくアルコール消毒のみでした。
現地ボランティアをしている方は、高砂淳二さんや越智隆治さんが理事を勤めるOWSの理事の一人で、なみちゃんこと、浪崎直子さんが事務局の前任者の方でした。名前は、吉田雅子さんといい、あだ名は、ケロさんという事で、僕らもケロさんと呼ばせてもらいました。
さあ、長い一日の始まりです。朝7時ごろ、ケロさんから電話があり初対面のご挨拶と僕の気持ちに賛同してくれ一緒に同行してくれた親友・高橋勇夫さん(ソウルマン)を紹介しました。
石巻専修大学には、いろんなところから集まってきた40ぐらいのボランティア団体がいて、その団体にボランティア志願をして集まってきた人達が1000人ほどいるそうです。
夜20時から、キャンパス内のホールで、ボランティア団体の各代表が集まって、その日の報告と翌日のボランティア活動の予定を話し合っているそうです。7時を過ぎるとかなりの人が起きて来て、グランド内に出ていました。
今回僕らは、小豆島に事務局があるボランティア団体「め組JAPAN」さんの仲間に参加させていただき、8時からの朝のミーティングに、参加しました。
リーダーからの、今日帰るボランティアさんに挙手してもらい、「お疲れ様です。また会いましょう」そして今日から参加したボランティアさんに同じく挙手してもらい「いらっしゃい、今日から笑顔でがんばってください」と。。拍手で迎えていただきました。。。そう笑顔が大切ですね。続いて昨日決まった本日の活動内容が発表されます。め組JAPANの今日の活動は「街中スマイルプロジェクト」石巻市役所周辺の家庭の泥出しと掃除です。男女一組になって、各家庭の泥出しと食器や家具の清掃します。石巻市内では、海岸や河口の周辺近くは津波の被害が大きく全壊した家も多いのですが、半壊してた家に戻って、1階部分には住めませんが、水には浸からなかった2階で生活を再開してる地域もありました。
当初泥出しのボランティアに参加する予定でしたが、出発前日に石巻市内から車で1時間ぐらいの場所にある牡鹿半島地区の小淵浜地区に支援物資が届いてないという情報があったので、皆さんから預かった支援物資を小淵浜に届けることにしました。ただ物資を届ける場合、被災者の状況や気持ちを考えて届けないといけないので、その当たりについては後ほど書きます。
支援物資を載せたトラックは、牡鹿半島に届けるかもしれないので、降ろさずケロさんを乗せて、最初の目的地石巻市伊原津地区に向かいました。
津波の被害が多い街中を抜けましたが、道路の脇には、壊れた車やがけ木が山のように積まれていました。建物は、形はあるものの中は、車内から見てても使えないほど壊れていることがわかりました。信号機は壊れて使えないので、交差点には警官が交通整理をしています。そのためかなり渋滞しています。
北上川を渡ると川岸の家はほとんど壊れたままで、北上川にはまだ沈没した船がいくつかあり、この川を津波が上がってきたのかと思うと、言葉もありませんでした。渋滞を抜け、大学から30分ほど走ると石巻市伊原津地区に着きました。この地区では、避難所生活を切り上げて、半壊した自宅を片付けながら、自分達の生活を立て直そうと働いている方がたくさんいて、その地区の中心的な秋山家では、2日1回の炊き出しが始まり、そのお手伝いをすることにしました。
こういう場所も、ボランティアをしているケロちゃん達が、いろんな地域を回り、地域にいる人の気持ちを大切にしつつ、必要なものを届けたりボランティア活動をすることを聞いて回っています。
そこで聞いた情報を、ボランティア団体のリーダーに報告し、行政にあげています。
石巻市には、支援物資不足しているものも多いですが、かなりのものが集まっています。ただそれを届ける人は、ボランティアの人達で、配る人手がまったく足りていません。更に、物資を運ぶ為の車のガソリンも不足してて、ボランティアの人達の活動を阻んでいます。
また、個人から来る物資は、仕分けされていないものも多く、被災者が仕分けのお手伝いに参加したり、日中ボランティアで駆け回ってきた方々が、支援所に帰ってきてから、一生懸命仕分けをしていました。
なので、個人レベルでの支援物資を受け付けてないところも多いようです。
ただ、必要としているものも、まだまだありますので、これもあらためて書きます。
話は、戻りますが石巻市伊原津地区で、炊き出しをしている秋山さんのお宅についた我々は、その地域をまず見させてもらいました。この地域は石巻漁港から500mぐらいのところにあり、地震発生から10分後に津波の第一波が来たそうです。家のほとんどは、1階部分が水没したそうです。路地には流されてきた車が積み重なったままの状態になっていました。路の脇には家から出された家具や畳など使えないものが高く積み上げられていました。そして、そんな被災地で逞しく元気に生活している家族の話をします。。。続く
宮城県石巻市レポート その②
前回のレポートに書き忘れましたが、石巻港の沿岸に魚の加工工場が多く、その冷蔵庫にはイカやカツオなどたくさんの海産物が冷凍されて保存されていました。それが津波の影響で、街のいたるところに散乱しています。津波の影響で家の中に入り込んだりして、腐り異臭を発しています。また、ヘドロの匂いもあり、町全体がかなりひどい匂いです。特に家に入り込んだ魚介類は、吐きそうなほどの匂いを発していました。ゴミやヘドロは、地元の住民とボランティアの人たちとで運び出され、道路に出すと、行政や自衛隊の車が一時処分場に運んでいます。でも、その運搬も多すぎて間に合わず、道路の脇は高く積み重なったゴミと化してしまった生活用品などでした。
僕らが最初にうかがった石巻市伊原津地区は、すでに泥出しは終わっていて、1階部分は、畳が片付けられて、床の上にブルーシートがひかれていました。
この地区の家は、半壊してる家が多く、避難所生活をやめて半壊した家の二階で生活を始めている人、日中だけ戻ってきて家を片付けている方もいました。その方々の中には夜は避難所で泊まってる人など様々です。そんな中でも、自分達で今出来る範囲で生活を立て直そうとしている方々も、出てきているようです。
近所を見せてもらっていると、年配の男性たちが集まって、穴を掘っている人と出会いました。
この辺りは、水源が浅く2mほど掘ると井戸水が出るそうです。近くの家で井戸を掘ったところ、水が出たようで、新たな井戸掘りをしていました。そんな男達を見て、心優しいソウルマンは、スコップを取り井戸掘りに加わって、一心不乱に穴を掘り続けていました。この地区は下水は無事でしたが、水道が出ません。水は不定期に来る給水車とボランティアの方が運んできてくれる水でまかなっています。なので、せめて井戸水が出るとトイレや洗濯には使えるためにと、みんなで努力しているのです。
伊原津地区のリーダー的な存在となりつつある秋山家にうかがったのですが、悲惨な現場を見て、悲しい顔をしていた僕を気遣ってか、秋山さんのお母さんが、腕を大きく振り上げて「みんなでがんばるぞ。。。おー」って言ったのです。
僕は、その時、はっとしました。「がんばろう日本」といいつつ、自分はしょぼくれた顔をしていたのでした。被災者の方に励まされてどうするんだよ。お前って思ったら、笑顔と元気が出てきました。
この先どうなるか、どうするかを決める事は、まだ出来ないけど、せめて自分達で食事を作ったり、生活をしょうと頑張る東北の人の強さを感じました。亡くなってしまった方もかなりいると思いますが、生きている人は、みんな元気に前を向いているんだなと。。。。
秋山さんのお宅では、その日炊き出しをするという事だったので、ケロちゃんが避難所から持ってきた食材を加えて、炊き出しの準備が始まりました。
今日のメニューは、カレーうどんとバナナです。
大きなガス炊飯器に、水を注ぎお湯を沸かします。もう一つの大きなガスコンロには、大きな寸胴釜を乗せ、みんなで切ったカレーの食材を入れていき、水を入れて煮込んでいきます。
バナナは、1本を三等分して、地区のみんなにわたるように、切ります。基本的に地区、避難所では争いが起きないために、みんな平等がルールなのです
お湯が沸くと、乾麺のうどんを折って入れていきます。水は貴重で煮汁は食器洗いに使うため取っておきます。そんな中で、みんな笑顔で食事を作り、元気に生活をしようとしていました。
炊き出しが出来たので、僕はメガホンを片手に近所を周り、「秋山さんのお宅で炊き出しが出来ました。よかったらどうぞ」と大きな声で呼びかけます。
すると家の中から々、すこしづついろんな人が出てきて、
「ありがとうございます」
「器がないんですが、大丈夫ですか?」
「メニューはなんですか?」
「5人いるんですが、大丈夫ですか?」
「あとで、行きます」
などいろんな人から、声をかけてもらいました。
そんな中で、3歳ぐらいの女の子を連れているお母さんと出会いました。
女の子に「カレーうどんあるけど食べる?」と聞くと笑顔でにっこりうなずいてくれ、炊き出し場所となっている秋山さんの家に来てくれました。
許可を取って、後ろからの撮影をされていただきました。
その後、ぞくぞくと人が来て、各人数分の炊き出しを嬉しそうに持っていってくれました。
高校生3人炊き出しをもらって嬉しそうな笑顔です。
秋山さんお宅では、今後2日に1回炊き出しをする計画をしてて、ボランティアの人達も支援していくそうです。
僕は、この家に4/2にWEB-LUEとガイド会のチャリティイベントで、みんながそれぞれの思いを書いてくれた旗を飾ってもらえないかなと思い、お母さんに事情を説明して渡すことにしました。
旗を見たお母さんと、娘さんは「ありがとう。。。涙が出ます」と喜んでくれました。お父さんは、その旗を家の壁に釘で打ちつけて貼ってくれたのです。
因みに、炊き出し中の看板は、秋山家の娘さんのくみちゃんの手作りです。
伊原津地区のみなさんは、こうやって少しでも前を向いて、自分達でも出来ることを始めていました。
先の事は、まだどうなるかは分かりませんが、いろんな選択肢を考えつつ前に向かっている姿に、心を打たれました。自然の猛威を目の当りにした僕らは、その破壊力に最初自分達の無力さを感じたのですが、その中でも前を向いている人達を、小さな力でも支援協力していくことが大切なのではないかと、思いました。
100食作った炊き出しは、なくなってしまい作ったみんなは、うどんのゆで汁を沸かして、カップ麺を食べました。
そうそうガスは、LPガスなんですが、津波で流れ街の中に散乱していたものを、拾って使ってるそうです。
食事も落ち着いた頃、運んできた支援物資で、みんながほしいというものを、おろし各々に必要なものを分けていました。
その後、石巻市で、もっとも被害がひどい牡鹿半島の小渕浜へと向かいました。。。続く
宮城県石巻市レポート その③
石巻市に向かう前日に、もっとも被害が大きかった牡鹿半島の小淵浜から、300人ぐらいが避難所にいるけど、石巻市から物資が届かず食べるものもないので、助けて欲しいと連絡が来ました。
そこで、急遽みなさんから、預かった支援物資を、牡鹿半島の小淵浜の災害対策本部に届けることにしました。
しかし、越智さんや既にボランティアに行った方から、いきなり物資を持って行っても、受け取ってくれない場合もあり、情報を確認した上で、判断をしたほうがいいですよ。とアドバイスをいただきました。
被災した方と、時下にコミュニケーションを取っているのは、日々被災地をまわり、被災している方に声をかけて、気持ちを組んで行動しているボランティアの方なので、現地でボランティアをしているケロちゃんに、牡鹿半島の小淵浜から、そういう話が来ていることを伝えて、今回出来たら、そこに物資を届けたいことを伝えました。
するとケロちゃんは、現地に行って様子を見て、渡せるようなら渡しましょうという回答でした。
「???」と思ったのですが、現地で交渉に参加して、その意味がわかりました。
牡鹿半島の小淵浜災害対策本部は、石巻市から車で1時間ほどかかりました。小淵浜は、燃料も掛かるため、ボランティアの方もほとんど入っていず、ケロちゃんも初めて行くそうです。
途中に広がる光景は、地獄絵のようで、村が丸ごとなくなってしまっている光景を目の当たりにした時は、涙が止まりませんでした。その光景を眺めながら運転していると、何もない光景なのですが、そこに人々が暮らしいてた残像が、見えた気がします。
僕らは何が出来るんだろう、この惨事に立ち向かっていけるのかなというネガティブな気持ちが湧き上がってくるのを心の中で打ち消していました。
自衛隊のみなさんが道路を綺麗にしてくれていたのですが、道の脇には高く積みあがったゴミと化した生活の後が続きます。道路は、ひび割れている場所も多数。
小淵浜に入ると、70代ぐらいの方が2人、家の周りを片付けていたので、情報収集のためお話を聞くことにしました。少し高台にあるお住まいは、真近かに迫る津波を家の2階から見てたそうです。
津波の事や地震のことを話す2人の話を、僕らはずっと聞いていました。聞いてあげることも、ボランティアの役目でもあるのです。30分以上話は続き、その後、小淵浜の災害対策本部の場所を聞くと、既に通り過ぎた津波で壊れてしまったコンビのところで、物資を管理していることがわかり、来た道を戻ることにしました。
目的の場所に着くと、怖そうな顔をした男達が10人ほど出来て僕らのところにやってきました。
後でわかりましたが、みんな猟師で、大半の方が船を失ったそうです。
ケロちゃんは、石巻専修大学にあるボランティアが集まるところから、来たことを伝え、みんなとの話を始めました。この時点では物資を持ってきていることは、伝えていません。
歓迎されていない雰囲気の中、1時間近く話は続きました。
その中の一番の年配者の方の表情が少し柔らかくなって、耳を傾けてくれるようになりました。その人は、宮城県漁業共同組合の表浜(小淵浜の中の一つの港です)支局運営委員長であり、漁労長でした。名前は、木村さんと言いました。
牡鹿半島で被災している300人は、19地区の避難所に分かれて避難していて、各地区の代表が、物資をここに、貰いに来るのですが、それを管理する責任者が木村漁労長です。
争いをされるために、みんな平等がルールです。なので、全員分がないと物資を分けないのです。
でも、それは多くの避難所でも、そうしているようです。
木村漁労長に、海を愛する仲間に呼びかけて、物資を持ってきたので、よかったら使っていただけますか?と伝えました。最初は、遠慮していたようでしたが、猟師の方々から、「食べ物はあるか?」「下着や靴下は?」持ってきた物資を一つ一つ下ろし見て、必要なものを受け取ってもらいました。
その時に、東北の秋田出身の尊敬する写真家・中村征夫さんからよく聞いていた言葉を思い出しました。
「東北人はなぁ、団結力が強く、我慢強い、口下手で、初対面の人とは中々話せない」
「また、何かいただいたら、その倍のお返しをしないと気がすまないだ」と。。。。
食べるものもなく物資がない状況にあるにもかかわらず、なんのかかわりもない僕達が運んできた物資を、お返しをするものがないのに、ただ受け取れないという気持ちだったようでした。
そんな状況でも、東北人の意地と我慢強さを感じ取ることが出来ました。ただ「これが欲しい」言ってくれた方が、どんなに楽かと思いました。そんな気持ちをほぐしてくれたケロちゃんの直向な接し方にも、頭が下がりました。多くの被災者とかかわってきたケロちゃんだからこそ、出来たことだと。。。。
必要とされている物資を下ろし終えたとき、残った物資を僕とソウルマンがトラックの荷台に戻していると、猟師のみなさんが、無言でトラックに積むのを手伝ってくれたのです。それは、無口な猟師のみなさんのありがとうの言葉だった気がします。
小淵浜では不要だった物資を積み終ると、木村漁労長が僕に向かって
「兄ちゃんありがとうなぁ」
「俺たちがんばるよ」
「小淵浜は、めかぶの収穫が日本一なんだ。海産物もたくさん取れる海なんだ。今は、何も無くなってしまったけど、ここでまた、必ずめかぶを育て、わかめなどの養殖を始める。そして、最初に取れた海産物を、兄ちゃん達に送るよ」と言ってくれたのです。
みんなから受けた物資に対して、今は何も返すものがない小淵浜の木村漁労長が今出来る精一杯の熱い感謝の気持ちのこもった言葉でした。
熱くなる気持ちを、飲み込み僕は「めかぶやわかめが収穫出来たら、みんなで買いに来ます」と言うのが精一杯でした。。
さらに、木村漁労長が「俺たちが元気なところを、物資をくれたみんなに見せて上げたいので、写真とってくれや」といってくれたので、こんな写真を撮ることが出来ました。
悲惨な現場を見て、ただただ無力感しかありませんでしたが、すでに前を向いて、地域で自立しようとしている伊原津地区のみなさん、何もないところから、再生を誓い立ち上がろうとしている小淵浜のみなさんの力強さを感じ、小さな力ですが、みんなが自立しょうとする姿を見守りながら、行政が行き届かない部分での後方支援が出来ればいいなと思いました。長い長い戦いですが、身の丈にあった出来ることをし続けて行きたいなと思い、定期的に現地に行き、被災地の方との交流を持ち続けるその決意をしてきました。そんな中で、再生していく被災地の現状を伝えながら、出来ることを発信していきたいと思います。
そうそう書き忘れましたが、今回、マイミク姐さんから携わったワンコの食事も、小淵浜においてくる事が出来ました。出来る範囲で、ペットの支援をしたいと言うことだったので、姐さんの連絡先が書いてあるポストカードを置いてきました。
みなさんに「また来ます」と別れの言葉を残し、更に牡鹿半島の様子を見るため、さらに奥に進んでいきました。
すると、ケロちゃんが車が停められるところで、ちょっと止めてほしいと・・・・
車を停めた場所は、村が丸ごとなくなっていた場所でした。
家の基礎しか残っていない場所に、お皿と茶碗、漁の仕掛けがならべられていました。
被災者の方が、なくなった家族と過ごした楽しい時間を、偲んでのことなのでしょうか?
そんな中で、ケロちゅんは、荷台から籠を下ろし、その中からお線香を取りだと、火をつけ、取り出した冊子をつぶやくように、読み始めました。。。。聞こえてくる小さな声は、お経でした。
なくなった方を、弔っていたのでした。長いお経は10分以上続きました。
僕らも一緒に手をあわせました。
更に進むと、4階立ての鉄筋の建物だけが、残っている場所がありました。近づくと4階のベランダまで、津波の後が。。。
更に進みたかったのですが、暗くなってきたので、途中、被害がひどかった石巻港により石巻専修大学に戻る事にしました。
石巻専修大学に、戻って小淵浜で下ろせなかった物資を、下ろすためボランティア団体が集めた物資のテントの前に、トラックをつけました。
すると、ボランティアの方々がどんどん集まってきて、物資を下ろすお手伝いをしてくれました。
日中ボランティア活動で、疲れているはずなので、嫌な顔せずに、黙々と物資を運び、奥ではたくさんの人が仕分けをしていました。事前の仕分けの大切さも感じました。
みなさんから、お預かりした物資は、全部無事に届けることが出来ました。
その後、ボランティアの仲間が作ってくたれとん汁をご馳走になりましたが、とても旨かったです。
材料は、近県から来た人が持ってきてくれたもので作ったそうです。
やり残したことは、たくさんありましたが、夜9時を過ぎてしまったので、東京に帰ることにしました。
何をすべきかの答えは、まだ見つかりませんが、今回出来た縁を大切にして石巻に、友人が出来たと思う事にして、長いかかわり持つ事で、答えを見つけて行きたいと思いました。
ボランティアの方々の努力と行動力には、頭が下がりました。
ボランティアに行くことを。迷惑だという人もいますが、行くことで、大半の被災者の方は、喜んでくれます。それは、早く入ったボランティアの方々が、被災者の気持ちを第一に考えて、被災者みなさんとの絆を深めてくれていたからだと思いました。
とにかく行動しょうという先人達のボランティアさんのみなさんの努力は、すごかったと想います。
今週末、再び石巻に行ってきます。物資はすぐ食べれる食料を、みなさんからいただいた協力金の中から買って届け、すでに石巻に届いている大量の物資を、僕の車で、小淵浜に運ぶ予定です。
出来たら、泥出しのボランティアもしていきます。
また、これから炊き出しをする計画や復興が進んだ将来、まころんちゃんや佐助さんなどが考えてくれたプロジェクトが出来たらいいなと思っているので、区長との面会もお願いしています。
無理せず出来ることを、こつこつとやって行きたいと思っていますので、協力していただける方は、引き続き協力、支援をお願いしたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。
ダイビングショップ 海潜隊
代表:河野 透

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