フォトグラファー越智隆治・“この瞬間”の裏側(第3回)

長年勤めた新聞社を辞めるきっかけになった戦艦の写真と、その機会を与えてくれた友人の死

この記事は約6分で読めます。

マーシャル諸島ビキニ環礁の戦艦長門(撮影:越智隆治)

これは1998年に撮影した、マーシャル諸島のビキニ環礁水深60mの海底に沈む、戦艦長門の艦橋部分の写真だ。

長門は、第二次世界大戦後、唯一自力航行可能な戦艦として、かつてアメリカの核実験場となった太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁での核実験の標的となるため、この地まで回航された。
日本連合艦隊総司令官山本五十六が指揮をとった長門の艦橋部分は、付け根からへし折れて、横倒しの状態で水深約60mの海底に、船底を上に向けて沈んでいた。

ビキニ環礁は、今では、“負の遺産”として、世界遺産にも登録されている。
しかし、一般の人がこの負の遺産の実態を見ることもできない。

当時、自分はまだ新聞社に在籍していた。
入社した頃から“潜水取材”がしたくて、写真部(現写真報道局)への入部を希望した。
写真部でなくては、新聞社で潜水取材をすることは難しいと言われたからだ。

部内には、潜水取材班というものはあったけど、全員が自分より経験本数も少なくて、すぐに即戦力として色々な企画を立てて潜水取材に行かせてもらえるようになった。
多くの潜水企画取材を新聞の一面やグラフにカラーで掲載してもらい、新聞協会賞や東京写真記者協会賞なども何度か受賞させてもらった。

そして、この核実験で沈められた戦艦長門の撮影が、自分にとっては、新聞社最後の潜水取材。
そして、今の水中写真家としての一歩を踏み出すスタートとなった。

取材当時、自分はAOW(アドバンスオープンウォーター)の資格しか持っていなかった。
もちろん、テクニカルダイビングの知識も無かった。
日本では、まだこのテクニカルダイビングがそれほど普及していなかった時代だ。

このときガイドをつとめてくれた欧米人とマーシャル人のガイドたちは、全員テクニカルダイビングの資格を持ち、ダブルタンクを装着。
ダイビングコンピューターも、酸素と混合ガスの設定変更などができる、当時としては優れたものだったけど、自分は、酸素での表示のみのものしか持っていなかった。
タンクも15リットルのシングルタンクを使用した。

毎日が60m前後の深度を2ダイブ、35分以上潜るダイビングで、当然のように減圧停止表示が出た。
一番多いときには、減圧停止時間75分が表示されたこともあった。

この減圧停止時間を短くするために、ボートの船底に設置された、ディコンプレッションステーション(減圧停止バー)につかまって、船からフーカーで出された80%のナイトロックスを吸った。

このスタイルが、当時このビキニ環礁を一般ダイバーに解放するために取られたダイビングスタイルだった。
毎日が減圧停止することが前提のレジャーダイビングプランなんて、今では考えられないことだ。もちろん、当時としてもだけど。

ここには、長門の他、原爆実験で沈められた米空母サラトガをはじめ、約100隻の軍艦が沈んでいる。
船内に入ると、いまだに信管がついたままの爆弾や魚雷が散乱していて、「爆発の可能性があるから、決して触るな!」とガイドに指示されて船内の暗闇の中を取材した。

自分のダイビングに求めるものの中には、癒しや和みよりも、こうした冒険心が優先してあるのは、こうした取材を経験してきたからだと感じている。
特にこのビキニ環礁の取材が、新聞社を辞めて、フリーで生きて行く決心につながった転機であったと今でも思っている。

その機会を与えてくれたのは、当時マーシャルズダイブアドベンチャーズという現地ダイビングショップの日本人マネージャー兼ガイド(後にショップを買い取り、オーナーになった)をしていた吉居さとし君だ。

この取材後しばらくして、新聞社を退職し、フリーになってほとんど仕事が決まっていない僕に、彼はマーシャル政府観光局の専属カメラマンとしての仕事も持ってきてくれて、マーシャルに29ある環礁の写真を撮るというプロジェクトを一緒に行うことになった。

まったくリゾート開発されていない、未開の地でのダイビング撮影は、多くのトラブルの連続だった。
高熱にうなされながらダイビング撮影をしたり、船のエンジンが壊れて漂流することも何度かあった。

ほとんどお金にもならない仕事だったけど、一緒にマーシャルを日本人ダイバーの間でメジャーにしていこうという思いを共有しているだけで、時に危険に身をさらしていても、楽しくて幸せだった。

その後、一ダイビングショップのオーナーガイドがする営業からは桁外れた行動力で、彼はたった一人の力で、日本からマーシャルのJAL直行便を飛ばすことまでしてのけた。
結果的に、色々問題もはらんだことになってしまったんだけど。

そして、彼はダイビング業界から足を洗い、ダイビングとは別の道で家族とともに生きていた。
今まで会ったダイビング関係者には、消息も知らせず、自分を含めわずかな昔の知り合いのみに連絡だけを取っていた。

マーシャル諸島ビキニ環礁の戦艦長門の新聞記事(撮影:越智隆治)

数年前から癌が全身に転移していることがわかった。
それでも、彼は自暴自棄になることなく、家族のために必死になって働き、抗がん剤で髪の毛が無くなった時でさえ、ロシアやマレーシアに商用で忙しく飛び回って営業を続けていたという。
なんでも自分で決めてしまう彼の行動力は、がん細胞でさえも、止めることができなかったようだ。

先日、その彼がついに癌で亡くなった。
まだ42歳の働き盛り。彼の遺言で、お通夜も、葬儀も親族だけで行うというので、その前にお別れの挨拶をしに行った。
苦しんでいる姿を知人に見られたく無いからと、入院中もお見舞いを断っていたそうだ。

彼を前にして、奥さんと話したときに、「もう一度越智さんと一緒に仕事がしたかったとずっと言ってました」と聞かされた。
「普段はこういうの絶対貼らないのに、越智さんが撮影した鴨川シーワールドのシャチのポスターだけは、『貼っといて』って言われて貼ってるんですよ」と言われ、リビングに貼ってあるポスターを見せられた。

7歳になるお姉ちゃんは、お父さんの死をなんとなく理解しているらしく、「うそつき、元気になるって言ってたじゃん」と目を開かなくなったお父さんに泣きながら話しかけていたそうだ。
それでも、家にお伺いしたときには、気丈に、明るい笑顔で出迎えてくれた。

まだ、父の死をよく理解していない4歳の息子さんは、紙でできたカブトムシのおもちゃを持ってきて、僕らが話す前で安らかに眠っているお父さんの頭にペトンとくっつけて、僕らを笑わせた。

きっと、サトシ君も、「も〜、やめなさい!お客さんの前で何してんの」と優しくしかりつけていたに違いない。

最後の最後まで、家族に希望を持ってもらうよう、明るく家族を励まし、自分自身も、生き続けるイメージを持ち続けていたという。
医師からも、「もう頑張らなくてもいいんですよ」とまで言われるくらい、家族のために必死に生きた。
はたして、自分が同じ境遇にあったら、彼のように強い意志を持ち続けながら死んでいけたかどうかわからない。

僕がこの道に進むきっかけを作ってくれた人。
彼がいなければ、僕は別の生き方をしていたかもしれません。
その人のことを知ってもらいたくて、今回、この写真を選ばせてもらいました。

ご冥福をお祈りいたします。

マーシャル諸島ビキニ環礁の戦艦長門の新聞記事(撮影:越智隆治)
\メルマガ会員募集中/

週に2回、今読んで欲しいオーシャナの記事をピックアップしてお届けします♪
メールアドレスを入力して簡単登録はこちらから↓↓

writer
PROFILE
慶応大学文学部人間関係学科卒業。
産経新聞写真報道局(同紙潜水取材班に所属)を経てフリーのフォトグラファー&ライターに。
以降、南の島や暖かい海などを中心に、自然環境をテーマに取材を続けている。
与那国島の海底遺跡、バハマ・ビミニ島の海に沈むアトランティス・ロード、核実験でビキニ環礁に沈められた戦艦長門、南オーストラリア でのホオジロザメ取材などの水中取材経験もある。
ダイビング経験本数5500本以上。
  • facebook
  • twitter
FOLLOW